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夏のよそ

あまりにも絵と俳句に関連性が無い為、頭を傾げる人がいます。

文章にも絵にも、すべて自分の内面が出ると思っています。取り留めの無さ、支離滅裂、これこそがわたしの個性かもしれません。


夏を待つ我が家です


夏のよそ瀕死の父に降る雨よ


梅雨が近づくと思い出す光景、それは大雨のなかで父が額から血を流して庭に倒れているというものです。

美容院から戻ると父がずぶ濡れになって、「いつ戻るかと待ちよった」と薄く笑いかけました。

傘を差し掛け、毛布でくるんで体温が逃げないようにしながら、急いで救急車を手配し、自分の病院に搬送してもらいました。

救急車のあとを追って病院に着くと、意識が朦朧となった父は応急措置的なペーシングを行う準備をしていました。

「心配ないよ」と声かけし、わたしも治療の介助をしました。こんなとき、医療従事者であるのは強みです。

心臓が止まらない処置をして、心臓が専門の病院へ移送しました。そこの救急の看護師や医師も顔見知りでした。

だからという訳でもないですが、丁重に扱ってくれるし、意志疎通も図れるし、なんだか看護師になったのは両親を看るため?なんて考えてしまいました。

すべてのことに意味がある、ですね。


どうしてブランコにのると
同じ光景が違って見えるのかしら
もう戻れない幼い頃の
記憶が見せるのでしょうか
「ふらここや漕げば幼き吾と逢ふ」