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飴と鞭と子育てと

「子育ては、子どもの個性を大切にして、    自由にのびのびと育てたい」という親。

「あたしの個性や価値観を尊重して、親には自由にやらせて欲しい」という子ども。

どちらの言い分も至極真っ当だし、わたしも共感するけれど、でもね、たとえば我が家の猫のマール。彼女は今は自由に暮らしているけれど、自由を手にするまでには彼女なりの苦労をしてきた(と思う)。

猫や犬と云えども、同じ屋根の下で暮らす「家族」になったら、ルールを学ばなくてはならないし、その為に、「おすわり!」とか「待て!」を覚える。

マールも呼ばれたら「ん?」と返事するし、大好きなチュールを食べたいときはきちんと「おすわり!」をする。いわゆる「躾」だ。

覚えるまではマールも苛ついていたけれど、覚えたら生きやすくなったように、見える。

お出かけしたければ入り口で座って、「行くの?」と声をかけられたら「ん」と答える。そうすれば、彼女は自由を手に入れる。

嬉しそうに庭に出て、思い切り体を伸ばしている姿からは、わたしという小姑の支配から解き放たれた自由を感じているようだ。

たぶん、人間の子どもも同じだろう。先に、大人の価値観とかエゴで「自由にのびのびと子どもをそだてています」と、自由が何かを知らない子どもにポン!と自由を与えても、子どもは本当の意味での自由を分からないだろう。

わたしも親からの「躾」という支配から解放されたときに、自由を得た高揚感と、同時に独りで世間に放り出された不安感があった。

本当に自由を実感できたのは、独りで考え、実践し、小さな成功を積み重ねて自信を得たとき、親の支配下から自分の支配下に自分がいい感じで移行できたと実感したとき、自分なりの自由を手に入れたと思えた。

暴力で支配するのはダメだが、親は子どもに自由に生きる厳しさと楽しさを教えるため、敢えて子どもを支配するのは必要だろう。

もちろん、あくまでも「躾」だ。だからこそ親にも覚悟がいるし、親も「健全な自由」を学ばないといけないだろう。

ある知人の女性は、ずっと親の支配下で生きてきたが、それが当たり前なので別に不自由とも思わないし、逆に、「自由にしていい」「好きにしなさい」と言われると困った。

「自由って、何をしたらいいか分からんし、自分で考えてやったら責任はあたし?嫌よ」

彼女に云わせると、どうしたらいいか分からない自由よりも、やることを示してもらい、責任も取ってもらえる方が楽、らしい。

彼女には子どもがいて子育てもしているが、「子どもには自由にやらせたい」と言いながらも、子どものSNSをチェックしては、自由そうに生きている子どもに嫉妬し、目に見えない「親子の絆」で子どもを支配したがる。

彼女の好きなワードが「絆」「つながり」「安心・安楽」と、前の総理に似ている。

「ここぞ」というときは、支配する、相手の自由を奪う必要もある。ときには悪者になる覚悟を持てる人が、愛情のある人だろう。

その場しのぎで、「いい人」ぶっていても、いつまでも真の意味での自由は与えられないだろう。

話しが飛ぶが、緊急事態宣言も同じ。いくら自由に生きる権利を制限されたり、制約されたりしても、宣言が解除されたら自由が約束されていることが判っているから、人は我慢できるのだ。

「飴と鞭」ではないが、人として当たり前の自由な暮らしを、飴を片手に謳歌するには、支配という鞭もときには必要なのだろう。

よし、賢くお留守番をするマールのご褒美のチュールを買ってくるとしよう。

支配のあとのチュール、庭でのかくれんぼは彼女にとって最高の自由な時間だ。