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誘惑

人間は悪をなすように誘惑されてしまう弱い存在だし、善をなすには勇気と努力が必要な弱い存在だ。

わたしも小さな悪ならばいとも容易くやってしまうが、コンビニエンスストアの募金箱を見ても、カード決済すると、わざわざ財布を出してまで小銭を入れようとしない。

こうなると、自分という人間は善行をしたくないのかな、と思ってしまう。

短大学生の頃、"牛に引かれて善光寺参り"で有名な長野県の善光寺に行ったことがある。

あの頃は「善行寺」と思い込んでいたわたしだが、牛に引かれてまで寺を詣でて、人間は善行を行いたい生き物か、自分の足で歩いて善行を行いに行かんかい!と思ったもんだ。

大阪に住んでいた頃、スクランブル交差点を見ると、あっちにもこっちにも、赤い羽根の共同募金箱を首にぶら下げた人がいた。

最初のうちは募金をして、赤い羽根を幾つも服につけて善良な市民の顔で歩いていたが、さすがに赤い羽根だらけになってきたら、「いい加減、気づけよ!」とムカついた。

目を逸らしたり、最終的には、歩くルートを変えたりして、俯いて目的地へ向かった。

なんにも悪いことはしていないのに、めちゃくちゃ悪人になった気分だ。まさに悪をなすようにわたしの心は誘惑されて、善をなす、善良な市民になるには、これほど共助の心と自己の努力が必要なんやと気づかされた。

ところが地元に戻ると、滅多に募金箱を首にぶら下げた人と出くわさなくなった。まず、車で移動するので街中に行かない。町外れのスーパーやDIYショップの出入口に托鉢をしている人がいるくらいで、彼らは静かに経を読んでいる(ふりをしているだけの人も)。

足元に置かれた茶碗には、五円玉や一円玉が数枚入っているのみで、スーパーのお総菜も買えない。

「どうしよう」と思うけれど、沢山のお金を入れるのも、また、僅かなお金を入れるのも相手を侮辱しているような気持ちになって、結局、足早に通りすぎる。

善をなすには、本当に勇気が必要だ。

それでも、他人の目さえ無ければ行いやすい善もある。トイレを綺麗に使うのもその1つだろう。

もちろん、誰も見てないからトイレを汚すという悪しき行動に、身も心も委ねる人もいるだろう。

でも、誰も見てないから思う存分に善をなすことができる人もいるだろう。どうやら善をなす人は、恥ずかしがり屋さんのようだ。

考えすぎて、考えすぎて、結局、なにもやらないことを選択してしまうわたし。自分では臆病な奴や、と思うのだが、「優しいから」なんて言われると妙に落ち着かない。

結果はなにもやってない。でも、その過程の思考が違う。結果をみるか、過程をみるか。

もしかしたら、この世は善人ばかりかもしれないし、悪人ばかりかもしれない。

だとすれば、最後の一票を投じるわたしは、善か悪か、責任重大。オーマイゴッ!


参考文献は、ハンナ・アレントの「責任と判断」です。