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第52回:フィンセント・ファン・ゴッホ:天才画家の人生を変えた出会いと別れ

 私の応援している作家さん、望月千歳さんが私のエッセイを見てくれてるので、今日は望月千歳さんの好きなエッセイを書いてみます!

https://kakuyomu.jp/users/fullmoonkaguya

 てことで、今日は望月千歳さんが好きなフィンセント・ファン・ゴッホの話。ちなみに私の最も好きな画家の一人でもあります。 下のようなひまわりの絵がゴッホの代名詞とも言える絵ですよね。まさか、知らないって人はいないですよね?!

ひまわり(wikipediaより引用)

 さて、ゴッホに関して色々な話があるのですが、今日はその中の一つをご紹介します。 では最初にクイズです、今から紹介する「絵」どっちがゴッホの絵かわかりますか? 

泥炭湿原で働く女たち(wikipediaより引用)
星月夜(wikipediaより引用)

 多分、星月夜と答えた人が多いと思うのですが、二枚ともゴッホの絵です。 上の「泥炭湿原で働く女たち」は同時代の画家「モネ」ぽく見えますがゴッホなんです。この時代、ジャポニズムも流行っていたりして似たような絵が多かったんですよね……。そして下は「星月夜」、ゴッホの最高傑作の1つです。あとでまた出てきますので覚えておいてくださいね。

 騙すような聞き方をしてしまいましたが、ゴッホはこのように大きく画風が変わったと画家なのです。今日紹介するのはゴッホの画風が大きく変わった物語、「天才同士」の悲しい衝突の物語をお話していきます。

 ゴッホは、1853年オランダ南部のズンデルトで牧師の息子として生を受けます。 平凡な学生生活を過ごした後、16歳で画商グーピル商会に就職し、ハーグ、ロンドン、パリの支店員を歴任しますが、23歳でクビになりました。

 その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに父と同じ聖職者を志すようになり、24歳で神学部に入る為の受験勉強を始めます。しかし、早々に挫折。 そして25歳の時、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、なぜか画家を目指すことにしたそうです。

 その後ゴッホは、オランダのエッテン(1881 年4 月-12 月)、ハーグ(1882 年1 月-1883 年9月)、ニューネン(1883 年12 月-1885 年11 月)、 ベルギーのアントウェルペン(1885 年11月-1886 年2 月)、パリ(1886 年-1888 年初頭)、アルル(1888 年-1889 年5 月)、サン=レミ(1889 年5 月-1890 年5 月)と移りすみ画作を続けます。 今日はその中の「パリ」と「アルル」の物語になります。

 ちなみにゴッホは他の画家と比べて恵まれていました。それは画商を経営している「テオ」という弟のおかげでありました。 「テオ」は兄思いで、パトロンとしてゴッホを援助し、かつ、自分の画商でゴッホの絵を売ろうと頑張っていたのです。

 ところが、ゴッホの絵は全く売れませんでした。ゴッホはその現実がつらくなり「俺の絵が売れないのはテオの売り方が悪いからだ!」と当たり散らしたあげく、 「テオ」との共同生活をやめ、「パリ」から離れて「アルル」に一人で住むことになります。

 しかし「アルル」に出て行った身勝手な兄を「テオ」は見捨てる事はありませんでした。「テオ」はアルルにいったゴッホに援助を続け、兄ゴッホを支え続けたのです。 そんな「テオ」のまごころを「ガン無視」のゴッホは、今度は「テオ」が自分の近くにいなくなったので「さみしい」と思い始めます。そんなボッチ生活を克服しようと考えたのが「黄色い家」。借家を共同のアトリエにして多くの画家たちに集まってもらい孤独を解消しようと考えたのです。

黄色い家(wikipediaより引用)

 さて、このアイディアに乗った画家はいたのでしょうか? 残念ながら、だれもゴッホの提案に応じたものはいませんでした。「ある一人」を除いては‥‥。その画家は、「パリ」でいつもお腹をすかしていました。もう共同生活でもなんでもいい!! 俺もゴッホみたいなパトロン付きの生活をしたいと強く思っていました。その画家こそが「ゴーギャン」だったのです。

  いつもさみしさを抱えていた「ゴッホ」といつもお腹をすかしていた「ゴーギャン」。こんな関係で始まった男同士の共同生活。さぁ、どうなったのでしょうか? 

 ゴーギャンと夢の共同生活を始めたゴッホは、ゴーギャンとともに「アリスカン」という古代ローマ遺跡が並ぶ散歩道を描いたり、ぶどう畑を見学しそれを絵にしたりするなど、充実した創作活動を続けました。 2 人の創作活動がどれほど激しいものだったかは、ゴーギャンが家を出て行くまでの2 か月の間に2 人の創作した作品の数(ゴッホ37 点、ゴーギャン21 点)を見るとよくわかります。

 一般的にゴッホは絵の制作時間が短いこと、ゴーギャンは反対に長いことで知られていますが、そのゴーギャンでさえも2 か月で21 点もの絵を残したのですから、共同生活がお互いの創作活動に良い刺激を与えていたことがわかります。ゴーギャンがアルルに到着してからしばらくの間は、お互いに刺激し合いながら蜜月の時期を過ごしました。 特に常に自分の技術を高めることに関心のあったゴッホは、ゴーギャンの技法を熱心に学ぼうと一生懸命に努力をしました。例えば、この時代のゴッホの名作が「アルルのダンスホール」です。

アルルのダンスホール(wikipediaより引用)

 ゴーギャンの絵の特徴である太い輪郭線を使うクロワゾニスムがはっきりと使われて、 一見ゴーギャンの作品ではないかと思ってしまうほどです。

 このようにゴッホはゴーギャンから画法を学ぼうとしましたが、同時に、ゴーギャンの絵についても自分なりの意見を述べるようになっていました。 ゴッホは激しい性格の持ち主でしたから、「指摘」は正しいのですが人が、引っ込み思案の陰キャなゴーギャンが「受け入れる」には語気が強すぎたのです。 その結果、ゴーギャンはお互いの性格が大変違っていると感じ、共同生活に平穏さを見いだせなくなっていってしまったのです。そして二人の仲を決定的にしたのが、絵に対する根本的な考え方の違いでした。

 ゴッホは写実を重視し、自分の目に映ったものを絵に表現するタイプ、ゴーギャンは想像を通して描くことを重視するタイプ。 もし、ここでお互いに尊重しあい、お互いのスタイルを認め合うことができたならば、結果は異なったのかもしれませんが、 お互いの才能を認め合うゆえ、相手より高見にたって欲しいという思いが、それを不可能にしてしまったのです。

 そして1888 年12月2 日、2 人の間に大きなけんかが起こり、ゴーギャンは家を出て行き、二度と戻ってくることはなかったのです。ゴーギャンを好きで好きでたまらなかったゴッホは発狂し、自らの耳を切り落とし精神病院に入院する事になるのです。 その後、精神病院を退院して書いた絵が、「星月夜」であったり「オーヴェルの教会」であったりするわけです。

オーヴェルの教会(wikipediaより引用)

 その後のゴッホ人生は見るに堪えないものでした。 ゴーギャンとの共同生活を忘れられないゴッホは、精神病院の入退院を繰り返し、 徐々に正気を失っていき、最後はピストル自殺しその生涯を閉じてしまいます。

 では、ゴッホとゴーギャンの絆は着れたままだったのか? と問われればそうではないのです。例えばゴッホは、ゴーギャンの為に「ゴーギャンの椅子」という絵を残しています。


ゴーギャンの椅子(wikipediaより引用)

 そしてゴーギャンは、ゴッホの死後「肘掛け椅子のひまわり」という絵を残しています。ひまわりはゴッホの代名詞でしたので、ゴーギャンが誰を思い書いた絵かは明確だと思います。


肘掛椅子のひまわり(https://ukiyobanare.com/2016/art/gogh/より引用)

 結局、ゴッホだけではなく、ゴーギャンもゴッホの事が好きで好きでたまらなかったということがわかりますよね!

 てなわけで、どうでしたか? 才能をお互いに認め合っていた二人の天才画家の物語。この話を聞いて私が思うのは、「自分に意見を言ってくれる人は宝物、それを生かすも殺すの自分次第」って事でした。いまだにそれが出来ていると言えない自分が情けなくもあるのですが、ねw 

 人のやる事には口を出さない事が最大の敬意なのだと知りつつ、口を出してしまう愚かな人間の独り言でした


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