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日々是祝日: おしゃべりピカチュウ(2021年5月31日)

針は12時少し過ぎ。「過ぎちゃってたね」の笑い声、面倒くさくてzoom閉じ、オンライン授業から抜ける。パソコン閉じて、立ち上がり、ぐ、ぐ、ぐーーーっと伸びすると、

    バキッ!

           バキボキッ! 

            ゴキッ!

       ゴリッ!

恐ろしい音が轟いた。

いや、これはこの僕の、骨の折れていく音だ、と気付いたときにはもう遅く、身体がぐらりと傾いた。頸椎外れて首が落ち、胸椎弾けて肺を裂き、次いで腰椎、仙椎・・・・・・と、みるみるうちに肉体は、床に崩れて内臓は、潰れ、血を吐き、液を噴き、痛みに呻く暇もなく、12時10分、死亡した。どこからか蝿がやってきて、死骸の周りを廻り出す。鱗粉キラキラ振り撒いて、天使のごとく軽やかな、蝿の輪舞のその下で、腐臭を放つ、肉体、僕の、死骸。

遺体の処理は嫌だけど、こんな汚物を放置して、叱られるのも怖いので、自分の遺体を背負って立ち、階段下りて台所、コンロに遺体に横たえて、青い火に手を合わせ、簡易的な火葬をやった。肉がジリジリ焦げていき、やがて煙が立ち上る。僕の死体を見たためか、火災報知器はけたたましく、笑う。

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灰になるまでの暇つぶし、と流しで皿を洗っていると、シンク脇にあるデジタル時計に表示されてる日付が目に付く。

5月31日。

大学の授業が完全な、オンライン化は4月22日。大体ひと月経ったのか。「へー」と言って皿洗いに戻る。

そして、茶渋を落としながら、先ほど自分が口にした「へー」の軽さに戦慄した。

まさしく今、僕はこの「ひと月」に、「長い」も「意外に短い」も感じられなかった。昨日と、一昨日と、一ヶ月前の区別がつかなくなっていた。

オンライン授業になって以来、人との交流が制限され、移動の機会が減少した。人流が死者を生む以上、「仕方ないね」とは思いつつ、その一方で、焦りというか、危機感というか、「なにかを奪われている」という、怒りの混じった不安感が、確かに心を占めていた。

たぶん、時間が奪われている。「無駄」と呼んでいた種類の、偶然性にとって根源的な、時間が奪われてしまったのだ。本を読んだり、ぼんやり景色を眺めたり、しょうもない思い付きでふざけてみたり、そういう時間が奪われたのだ。その代わりとして僕たちの、手に渡ったはずの時間、移動時間の短縮で、新たに生まれたはずの時間は、日々のしかかる課題とか、絶えず襲いくる眠気とか、目、肩、腰、頭の痛みとか、無気力さ、自己嫌悪感、希死念慮とか、これらをどうにかやり過ごそうすための、部屋で喚いたり柱を噛んだりに、全部費やしてしまった。手元にはなにも残っちゃいない。詐欺にでもあった気分である。

「今日と同じ明日が来る」

と口許で呟いた。

呟いてから、思った。陳腐だなあ、と思った。喉が、唇が、陳腐なことしか言えなくなったなあ、と思った。根源的な時間から、切り離された僕たちは、みじめに縮んだ燃えカスで、街を揺るがす強風に、浮いて、飛ばされ、散らばって、混ざり合う。薄くなる。消えていく。

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きっと、今この瞬間も、すぐに昨日や一昨日や、一ヶ月前と混ざり合う。明日も明々後日も一年後も、みんな同じになってしまう。「仕方ないね」と言いたいけれど、まだ、なんとなく抵抗してみたい気がした。どうにか、他でもない今日を祝いたかった。5月31日、ごがつ、さんじゅういちにち・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あ、もう6月になるのか」

それは、ちょっとした、いや、僕には大発見だった。本当はこの日付を見たときに、一番最初に思うべきことではあるのだろうけど、今まで、過去の日付にばかり、釘付けになっていた自分には、重い扉が動き出し、呼吸が軽くなっていた。

そういえば、中学高校と一緒だった友人に、誕生日が6月初めのやつがいた。僕は、親しい友人の、誕生日には毎年、余裕があれば適当な動画や画像を送りつけていた。さて、今年は何をしようかな。うーむ、と考えてると、カバンの下に何かあるのを見つけた。出てきたのはピカチュウのお面。一昨日、重い腰上げて、トイザらスへ行ったはいいものの、ポケモンカードは品切れで、陳列されたおしゃべりピカチュウに話しかけてもシカトされ……このまま帰ってしまうのも、なにか負けた感じがし、それで購入したのである。

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僕はピカチュウのお面をし、思い切って外に出た。案外涼しい、風のおかげか。この格好で街中を歩くのは、最初は他人の目線が痛かったが、しばらく続けていると、それも痺れるような快感に変化した。視野がかなり狭くなるから、それなりに危険ではあったけど、それでも僕はるんるんで、交差点を、公園を、神社を、商店街を、路地を練り歩いた。色んな人にぶつかって、転んで、謝って、立ち上がって。僕の身体は数時間前と比較して、幾分か軽やかであった。僕は大通り沿いのローソンで、店内を2周くらいして、「まあ、これでいいピカ」と商品を手に取りレジに向かう。

「パイの実とLチキ一つずつですね。お会計350円になります」

「ピカッ!」

「は?」

「ピカ、ピカピカピ!ピーカーチュッ!」

「ピカ、じゃわかんねえよ、調子乗ってんじゃねえよカス」

店を出た。夕陽が目に染みた。撮影したのは結局、成人男性がピカチュウのお面をかぶって「ピカピカ」と言いながらパイの実を食べる動画であった。

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まるで大仕事を成し遂げたかのように、気分は晴れやかであった。ここ最近は、だれて、混ざって、腐っていくクソしょうもない日々だけど、僕の手元にはお金も夢も希望も何もないけれど、とりあえずこれからも友人は祝っていこう、と思った。友人たちにはそれなりの転機があり、喜劇があり、悲劇がある。だから、どんな形でもいい、友人の日々に彩りを加えることを手伝って、今日を「他でもない今日」に塗り替えていこう。



「うーわ、良い子ぶった中学生みてえ。くっさ」

背後から聞こえた。振り向くと、自分がいた。

ガスコンロの青い炎、その中で嘲笑している。

うわっ、醜い顔!

くっせえ息!

癇に障る声!

あまりにも気色が悪いから、その焼け爛れた顔面を、フライパンでぶん殴る。首がもげて、頭がぼとり、落ちた。目玉が溢れ、まるでゴムボールのように、小さく跳ねた。鼓動が激しくなっていた。死体から、腐臭がした。いや、死体からではない。自分の吐息であった。

なんか、疲れた。皿を片付け終わったら、どっぷり眠ってやるんだ。泡を流し、水切りかごに全部置き終わって、手も洗って、ふう、と一息、振り返ると、テーブルの上にガラスのコップが、置いてある。洗ってたやつかな、違うのかな。持ち上げてみるとその奥に、また別のコップが現れた。机に置かれたコップは、一個でも、二個でもなかった。数えてみると、四百八十万個あった。もう、わけがわからなくなった。腹が立ってきた。やけになって、全部割ってしまおうと思って、壁にめがけて、思い切りコップを投げつける。ところが、案外コップは頑丈で、ヒビの入ったのは壁の方で、屋根は崩れ、柱は倒れ、木造3階建ての狭小住宅は、瞬く間に崩壊し、後に残ったのは、惨めで醜い僕の肉体と、完全無欠で高潔な、デュラレックス社製のコップだけ。

そのとき、父と母と弟の足音が聞こえた。

マズい、この惨状を隠蔽しなくては! 起きあがろうとした、しかし、建物の下敷きになっていて動かせない。

足音はズンズン近づいてくる。バラバラの歩調で近づいて来る。

じゃあ、誰かに罪をなすりつけよう!アイツのせいだと言ってやろう! 捨て駒を探そうとした、しかし、落とした目玉は動かせない。

足音はさらに近づいてくる。革靴の匂いが鼻をくすぐる。

じゃあ、弁明だ、釈明だ、謝罪会見だ! 声を上げようとした、しかし、死人に口はない。

家族が僕に気づいた。それから、僕を引き摺り出して、仰向けに寝かせると、それぞれ拳くらいの大きさの石を手に取って、それぞれ順番も決めずバラバラに僕の顔面に振り下ろした。

一時間か、二時間か、経っただろうか。もう完全に顔面が潰れてしまうと、家族はもう興味を無くしたようで、僕の遺骸を抱え上げると、躊躇いもなく夢洲の、灰の中に棄ててしまった。

それから、それぞれ言葉も交わさず、それぞれ最新式のiPhoneを取り出して、それぞれ最新式のAirPodsをして、それぞれ背中を向けて、それぞれでYouTubeで最新の動画を見始める。スマートであった。ニューノーマルであった。

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紺碧の空に月が上る。金色の光は豊かで、大阪湾の底を柔らかに照らす。灰の中の僕の遺体をも、やさしく抱き締める。ところが、突如、空が明るくなり、月面は突如、有機ELモニターに変化し、最新の広告が流れる。

「シンプルっていいよね!」「つながるって最高!」

映ったのは、森菜々の笑顔であった。神尾楓珠の笑顔であった。酒場が閉まり、行き場を失った仕事終わりの中高年が空を見上げ、代表的若者たちの軽やかな足取りに、拍手喝采をして、新しい時代の到来を祝っている。

光はもう届かない。僕の手になにか、冷たいものが触れた。死体だった。僕ではない、他のさまざまな、シンプルさに棄てられた者たちの、死体だった。

(冒頭の画像は、本記事とは関係ない、2年前に食べたサーティワンのピカチュウケーキ(カット済み)です)


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