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にぎやかな一人の夜

夫が熱を出したのでポカリスエットを買いに行った。

はじめは手作りしたイオン飲料を飲んでもらい、口に合わなかったらポカリ買いに行くよと断りを入れたがこれは飲めると言うので、1.5リットルのペットボトル1本分つくって枕元に置いておいた。残りが1/4ほどになった頃、やっぱりポカリ飲んでみようかなと小さく言うので、はいやっぱりそうよね。と頷きながら夫のファットバイクをかっ飛ばしてドラッグストアへ向かった。どんなに素晴らしい自然療法だろうと、長年身体に染みついた食べ物と飲み物の記憶と効力には叶いっこないのだ。

そういうわけで夜は一人で食事をとった。じぃじと風呂に入りすっかりご満悦でおっぱいも済んだ息子はあっけなく布団にころり。彼のおかゆとほうれん草のディナーはテーブルの端でちょっぴり残念そうにしていた。

土鍋で炊いたご飯があるから、納豆ご飯でいいかな。と思い冷蔵庫からまず1パックの納豆を取り出す。あ、キムチがあった、これも食べよう。そういえば有機農家さんから土付きの長いもをもらったな、あれを皮付きのままカラッと揚げて塩ふって食べたらおいしそう。きゅうりの漬物の作り置きもあったな。あ、しらす干してたのカラカラになってる、これ納豆に混ぜよう。台所の中をくるくる回転しているうちに小さな食卓は賑やかになっていった。

台所の小さなテーブルにていただきますとささやくと、まるで修道院での食事が始まるような厳かな気持ちになった。はじめにきゅうりをぽりぽりかじると、そのみずみずしい塩気が血管の中をさらさら流れていくようだった。カラッと揚げた皮付きの長いもはやはりおいしく、皮はカリッ、中はホロリととろけた。この食べ方を知ってしまった今、皮なしの長いもがもはや味気なく思えてくる。

ここで息子に呼ばれ、寝酒一升ならぬ寝乳一杯。数センチ開けていた窓から久しぶりに聞こえる雨の音と湿った風が入ってきて、ほんのり生暖かい布団に息子を寝かせがら今夜は気持ちよく寝られそうだなと思った。

テーブルに残っていたキムチを箸の先でつまみ、食べ、またつまみ、食べ、これは冷酒ですねと脳みそが語りかけてくる。よく混ぜた納豆をご飯にのせ、さっと醤油をまわしかけて口中に運ぶ。うわぁ、生きててよかった。と、こんなことで思えるのだからわたしは本当に幸せ者だ。人は食うために生きているというのは過言ではないと思う。少なくともわたしは生きるために食べてはいない。散歩していたら豆腐屋が現れてそこで食べた揚げたてのドーナツに感激したり、見事な開きホッケを見つけて購入し家で一夜干しして食べたら全身に海の潮が押し寄せてきたり、良い塩梅に仕上がった味噌汁の塩加減にホッとしたり、そういう些細な食卓の時間に「わたし、生きているなぁ、今」としみじみ感じられるのである。

お茶碗と小鉢たちはどれもすっかりきれいになってしまった。わかってはいたが、やはり汁物でも作るんだったなと思った。食事の最後に喉に流し込む汁物の存在は偉大だ。あの行為は、食べたもの飲んだものすべてを余すことなく腑に落としてくれる。自分のことを棚に上げていたわけではないが、長年身体に染みついた食べ物と飲み物の記憶と効力には、きっと誰も叶いっこないんだろう。

夜中起きてきた夫に、おにぎりとわかめスープを作った。残すかなぁと思ったがぺろっと平らげて、そのあと牛乳もカプッと飲んでいた。「ファットバイクのタイヤ空気抜けていたでしょ」と聞かれ、まったく気がつかなかったわたしはよほどポカリスエットのことで頭がいっぱいだったんだな。

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