見出し画像

繋がれる「わたし」、漂う「わたし」

「テセウスの船」という話をご存じだろうか。ドラマではないほうの。

古代ギリシアの時代、アテネではある英雄を載せた船が保管されていた。
木材が朽ちたり腐ったりしたらその都度新しいものに入れ替えて、その船は何百年もの間保存され続けたのだという。
ある時「すでに木材は全部入れ替わって当時のものは無くなってしまったから、この船は英雄が乗ったのとは別の船だ」と主張する人が現れた。
それに対して、別の人は「いやいや、これはかつて英雄が乗った船として飾られてるのだから、仮に部品がすべて置き換えられたとしても同じ船だ」と反論した。
この逸話は「テセウスのパラドックス」として、今もなお哲学者たちの議論の的となっている。


時が経つことでその構成要素が変わってしまうとしたら、人もまたテセウスの船ではないだろうか。

人体の細胞は、1年のうちにその大半が入れ替わってしまうのだという。
血液は3~4か月でごっそり別のものと入れ替わってしまうらしいし、肌の細胞は数週間単位で更新を繰り返すらしい。
わたしたちが食べたり飲んだりしたものも「体の一部」と捉えれば、わたしたちの体は、絶えず地球のどこかで拡散を続けていることとなる。

人の体は、死ぬまでパーツが変わり続ける。
にもかかわらず、わたしたちは一生を通じて同一の自己を保持し続ける。

変わりゆくものと変わらないものの境界は、けっこう曖昧なのである。


◆◆◆


「今日の考えごと」というテーマで、日記を1年近く書き続けている。

テーマはいつも同じ。その日考えていたことを書き殴る。
事実を書くことはまれで、だいたいいつも頭の中で考えていたことや感じたことを外に出しておく。
たまに読み返して「あの時はどんなこと考えてたんだっけ」と思い出すようにしている。

人は自分が思っている以上に、過去のことを憶えていない。
人体を構成する細胞が入れ替わってしまうように、思考もまた絶えず生まれたり失われたりする。
日記をつけたりメモにして書きのこしたりしておくことで、気が付くと失われてしまうような儚い思考を、この世に繋ぎとめておけるのだ。


◆◆◆


ときどき考える。
かつて自分の体の一部だったものは、今どこに存在するのだろうかと。

老廃物や排泄物として体の外に排出されたものは、処理場で焼却されたり微生物に分解されたり大気中に混じったりして、今も世界のどこかに存在している。
もしかしたら、かつて自分の一部だったものが、今は別の新たな命の一部を構成しているのかもしれない。

思考もまた同様に、僕から離れても存在する。
文章を書いて発信することは、思考を頭の外に排出することだ。
人体の場合と異なるのは、排出された思考は明確な形式をもって世界を漂う点だ。

たまに、何か月も前に書いた記事に反応が来ることがある。
外部化された思考がネットの海を漂って、どこかにいる誰かの思考の一部となった、ということなのだろうか。


どこまでが「わたし」なのか、その境界線は曖昧だ。

そもそも、境界線を引くことに意味はあるのだろうか。

あなたのちょっとのやさしさが、わたしの大きな力になります。 ご厚意いただけましたら、より佳い文章にて報いらせていただきます。