見出し画像

感性を殺さないために

ぱさぱさに乾いていく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

茨木のり子『自分の感受性くらい』

3年ほど前から日記を書いている。
が、このごろ文量と密度が明らかに低下している。

僕が日記を書くのに使っているアプリは書いた日付をカレンダー形式で表示してくれるのだが、2年前と比べて空白が目立つようになった。

単に疲れが溜まっているとか気が緩んでいるんじゃないかって言われそうな気がするのだけど、僕にはどうも、これがもっと深刻な事態のように思えてならない。


同じような変化が、他のところでも発生しているからだ。


本を読む頻度が少なくなった。
出かける時はいつも本を持っていくが、実際に開くことはまれである。
2週に一度図書館に行く。返却期限がきた本を窓口に渡して、もう一度借りるためだけに。
ラインナップは半年前からほぼ変わらない。

映画はこのところほとんど観ていない。
学生時代には近所のミニシアターに毎週のように通っていたのに、今はNetflixのうんざりするくらいのラインナップにすら食指が動かない。「ちょっと観に行きたいな」と思った作品は、気がつけば上映期間が過ぎてしまっている。

暇な時にやることといえば、YouTubeでスポーツ中継のハイライトだったり、ネット掲示板をまとめた2分程度の動画をダラダラ眺めることくらい。


余暇の過ごし方が、どんどん短絡的になってきている。
これが俗に言う「感性が錆び付く」ってやつなのか?


『花束みたいな恋をした』で、菅田将暉が演じた男の子の「パズドラしかやる気しないの」という発言が時々思い出される。
仕事でもなんでも、おのれの美意識のフィルターを機能停止させたままでいると、心からうるおいが失なわれてしまう。乾涸びてひび割れた表面からストレスなんかが沁み入ってきて、感性は内側からズタズタに破壊される。


水やりを怠っていては、感性なんて簡単に死んでしまう。
きみがきみ自信であることを、誰も肯定してはくれないからだ。


感性が蝕まれてくると、心の渇きをインスタントな刺激で満たそうとする。具体的には、動画やSNS、スマホゲームなんかのわかりやすい娯楽(あえてそう言わせてもらう)に走ることだ。
その手段は一時的には渇きを忘れられるだろうが、長期的な解決策とはならない。むしろ、心はどんどん鈍感になっていって、感性はますます死に近づく。

もし、自分自身のうちにある感性を殺すことなく、フレッシュに生き続けたいと願うなら、残された手段はただ一つ。


創造することだ。


先に断っておくが、これは万人に向けたメッセージじゃない。
心からしなやかさが失われていることをなんとなく自覚しつつも、それをどうすることもできなくて、そうした状況に危機感を覚える、僕と同じような人たちに向けて言っている。

これは戦い(struggle)だ。
自分の感性を諦めきれない、往生際の悪いタイプの人間が、自らのアイデンティティを巨大ななにかに食い潰されないようにする足掻きだ。

膨張し続けるコンテンツの渦に身を任せていては、自分が真に知りたいことがわからなくなってしまう。
あらゆる時間と空間に偏在する広告に判断を委ね続けていては、本当に欲しいものがわからなくなってしまう。

自分であることを、自分自身で肯定するためには、あらゆる外部の圧力から自由になって、何かをつくり出すことが必要なんだ。

大層なものはつくらなくたっていい。
誰に見せるでもない絵を、夜な夜なCampusノートに描けばいい。
心震わされた音楽の感想を、自室のパソコンのワードプロセッサーに打ち込むでもいい。
ダンスや演技など、身体を使うものもいい。
それすら難しかったら、休みの日に使い捨てカメラを買って街中をふらつくだけでもいい。

一人でやるのが難しかったら、友達恋人家族、誰でもいいから道連れにしてみたっていい。

本当になんだっていい。

スマホをどこか手の届かないところに追いやって、TwitterインスタYouTubeネトフリまとめブログその他諸々きみの集中力を失わせる全ての外圧を出入り禁止にして、内側から湧き起こる衝動に目を向ける。
そうして見出した内的衝動に、なんらかの形を与える。

どうか、それを続けてほしい。一日や二日で終わりでなくて。
できれば、さらけ出してほしい。

僕もそうするから。

この記事が参加している募集

あなたのちょっとのやさしさが、わたしの大きな力になります。 ご厚意いただけましたら、より佳い文章にて報いらせていただきます。