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【日記】 ドキュメンタリー『私のはなし 部落のはなし』を見る(22.12.4)

「学びほぐす」というのは言い得て妙。一部に「解放同盟寄り」といった批評もあったのでどうかと思っていたが、とても丁寧につくられた好感の持てるドキュメンタリーと言える。

 被差別部落史が専門の黒川みどり氏の解説を軸に、京都・大阪・三重の当事者たちがみずから語り合っていく織布とでもいおうか。個人的には既知の断片を織り合わせ、もういちど学びほぐすには良い機会だった。最近グーグルによって動画を削除された鳥取ループの宮部龍彦氏の登場も良い。かれの根底にあるのは(おそらく)部落差別というよりも解放同盟や同和行政に対する反撥であるのだということが図らずも写し出されている。部落差別などというすでに複雑怪奇に絡み合った糸を学びほぐすには白紙の目線で入り込んでいく直截さが良い。

 それよりも驚きだったのは「融和」から変遷した「同和」の言葉自体、天皇主義色が濃いものだったという事実だった。「同和」という言葉は、昭和天皇即位の際の詔勅にある「人心惟レ同シク民風惟レ和シ」から生まれ、その後の水平社をはじめとした部落運動が天皇制のもとでの戦時体制へ合流・消滅していったことを暗示するように、まず天皇があった。

 この作品はおそれずに天皇制まで駒をすすめているが、中上健次が1980年代にジャック・デリダと語った対話での「天皇も部落も文化的産物である。だからどうしようもない」という中上の発言がわたしに突き刺さる。

「 天皇、それと同時に下にあるアブジェクション〔おぞましさ〕として、ほとんど天皇と同じような資質を持ちながら下に行ってしまうという、そういうアブジェクション、アウト・カーストの人びと——天皇もアウト・カーストですよね、カースト外ですから。そういう、両方を補完し合っている。しかし何度も言いますが、このカースト外というのも、ツリー状ではありません。霜降り肉状です」(中上健次、ジャック・デリダ「穢れということ」(柄谷行人・絓秀実編『中上健次発言集成3 対談Ⅲ』所収、第三文明社、1996年)

 この中上の発言にどうこたえていくか、ということを考えている。


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