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新感覚エレクトロジャズポップ 高峰伊織「nil」の魅力

 こんにちは。3か月記事を更新していなかった分、短期間での2連続投稿をすることにしました筆者です。毎度毎度レビューを出すのが発売から少し経ったなんとも中途半端な時期になってしまっていますが、良い作品は時代を超えていくからという聞こえの良い言い訳をしたところで、今回の本題に移っていきます。

 今回取り上げるのは、僕がnoteで初めて記事を書いた、トマト組所属バーチャルジャズボーカリスト高峰伊織さんのアルバム「nil」でございます。前作「POLESTAR」では、ジャズ的なイディオムをふんだんに取り入れたキャッチーかつハッピーな作品となっていましたが、今作では大胆なシフトチェンジが見られました。

「飾らないわたし。眠っているわたし。あなたの知らない、(あなたにとって)存在しないわたし。」

というコンセプトを掲げて発表された今作は、以前までの伊織さんのソウルフルで溌剌としたボーカルのイメージとは打って変わって、ダークさやキュートさ、ときには脆さまでをも垣間見せています。こるせさんのジャケットのイラストで、伊織さんは今までのステージ衣装から主張の少ない純白のワンピースに着替えており、トレードマークの帽子も脱いでいるのが印象的です。奇才鹿あるくさんのトラックも、エレクトロなサウンドを大胆に聴かせつつ、渋谷系やジャズ、ブラジル音楽など幅広い音楽の影響を感じさせるものとなっており、その二人のカラーが絶妙にマッチした作品に仕上がっています。そんなアルバム「nil」の魅力的な楽曲たちを、今回は1曲ずつ語っていきます。

1、mirror

 シロフォンのリフやバブル音、スペーシーなベースなどFuture Bassのようなキュートな冒頭から始まるこの曲。いきなり今までとの作風の違いに驚かされます。Aメロに入ると、スネアがドラムマーチのごとく細かくリズムを刻む上で、淡々としたボーカルが都会の孤独感を歌います。冒頭のリフから続く裏拍のキメのリズム(歌詞の「一人きり」の部分)が特徴的で、グルーヴを感じさせます。「さんざん願ってたって~」からのコード進行が非常に面白く、メロディのトップノートが半音ずつ下がっていくとともに複雑に動いていますが、きらびやかなシンセのオブリガードがそれを自然に聴かせています。

 サビ(と言って良いのか分からないけれど)の入りは、Aメロの終わりのロングトーンからスムーズに接続されます。ここではバックのサウンドが薄くなる代わりにコーラスが入ることで、和声感がグッと出てきます。最初は主旋律にぴったりとくっついて動くコーラスは、「今日は動けないな」のところでふっと離れ、美しく順次的に下降・上昇をしたのち「リキュールで」の部分でまた一緒になります。ここの内声の動きは見事です。

 サビを抜けると再び冒頭と同じリフに戻ってきますが、ここでようやくバスドラムのビートが強く打ち出されます。サビのシェイカーのグルーヴを引き継ぐように、サンバキックのようなリズムになっています。他の曲でもそうなのですが、ブラジル音楽的リズムや内声の動きが多く見られるのが鹿あるくさんの特徴かもしれません。

 2回目のAメロは前述の通り、まさにシェイカーとボサノヴァクラーベというブラジリアンなリズムが鳴っています。その上のシンセのサウンドは徐々に明るくなっていき、そのまま山場のボーカルチョップへと突入します。透明感のあるコーラスから笑い声、キュートな擬音のスキャットなどの素材が気まぐれに配置され、聴く側を振り回しますが、その分陰で鳴っているヴィブラフォンのメロディアスなフレーズがナイスです。

 チョップが終わると再びAメロに戻り、サビ前のブレイク次への盛り上がりを期待させますが、それを裏切るようにグロッケンのアルペジオとソフトなボーカルが入ります。サビ終わりの「(横)たわれば」と同じ上昇音型で奏でられるシロフォンが半音上への転調を予感させ、ラスサビへと向かいます。ここの2段オチが何ともにくい。ラスサビはサンバキックのグルーブとロングトーンのフレーズがようやく合わさり、クライマックスを演出します。あくまでこれは個人的なキーに対する印象なのですが、D♭からDへ、フラット系からシャープ系への転調はかなりハッピーで明るい様子に変わる感覚を抱きます。ラストのフレーズはコンディミ(英語だとSymmetrical Diminished Scale)の音型で、ベースは5度進行。エンドトーンはB△9と短3度下へ転調しており、浮遊感のある余韻を残して曲は終わります。

2、darling

 今回のアルバムのマイナーキー枠。少女性の中に妖艶なエッセンスが混じったような、個人的にボーカルの感じは椎名林檎っぽさを思わせるような曲です。歌いだしを聴いて分かる人は分かると思いますが、ジャズのスタンダート中のスタンダード「It Don't Mean A Thing(邦題:スウィングしなけりゃ意味がない)」が元ネタとなっています(スウィングしていないしこの曲に意味はないのではという野暮すぎる突っ込みは置いておいて)。

 マイナーの循環っぽい進行+トップノートのクリシェ(A→G#→G→F#)といういかにもジャジーなイントロを抜けると、It Don't Mean A Thingをもじったメロディが歌われます。シェイカーとクラーベから、この曲の基調となるリズムもやはりボサノヴァだと分かります。しかしながらブレス成分多めのヴォーカルは艶があり、1曲目とは全く異なる表情を見せてくれます。

 Bメロもこれまたいかにもなツーファイブ進行で始まり、ボーカルのクロマチックなフレーズもジャズイディオムを感じさせ、Aメロからスムーズに接続します。サビ前のツーファイブフレーズなんかもあからさまで、歌謡曲的ともいえます。

 しかし、ブレイクを挟んだのちのサビで、曲の印象はかなり変化します。メロディのクロマチック感こそ引き継いでいるものの、音数が多くなり現代的なポップスの印象に。コード進行もポップど真ん中で、平行調のメジャーに転調してサブドミナントのF△7始まり。Ⅲ7-ⅥmやⅤm7-Ⅰ7なんかのポップス王道進行が使われているのも特徴的で、AメロBメロのジャズ的進行と対照的になっています。サビのラストの「(あなたの鼓動)が どれだけ 心無いことも」の部分のクリシェは冒頭のものとそっくり同じですが、メロディがポップになっていることでまた違った印象を与えてくれます。

 サビが終わると堺ことりさんによるクールなピアノソロが展開されます。ブルージーなリックと音色が曲調に非常にマッチしており、短いながらストーリーの組み立て方が見事です。続くAメロはくぐもったボーカルとエレべのフレーズが聴き手を幻惑させるようで、歌詞と相まって抗いがたい恋の魔力を思わせます。かと思えば「夢に溶けていく」の不意打ちにドキッとさせられたりと、巧みな演出が続きます。続く鹿あるくさんのサックスソロは、ハリのある音とニュアンスがフュージョン的。次の曲「weak」らしきフレーズが入っていたりと遊び心も感じられます。

 サックスが3拍フレーズで上昇しながら盛り上がった先でブレイクが入ると、突如短3度下転調されたサビのメロディが入ります。ボサノヴァ的なギターとスペースを縫うように奏でられることりさんのピアノが冴えわたるここの部分のセンスには脱帽です。

いつか触れなくなって 話せなくなって 見られなくなってしまうのかしら それならそれでいいわ 歌えなくなって 踊れなくなって 走れなくなってしまうのかしら それはやだな

という歌詞が印象的で、恋焦がれるあなたといずれ別れるのは構わないけれど、自分の身体が衰えていくのは我慢ならないというのがなんとも素直。結局、恋する自分に恋しているのかもしれません。

 エンディングは長尺の熱の入ったサックスソロ。曲中に大胆にサックスソロが入ると、山下達郎などのシティポップを思い起こさせます。最後の循環進行はイントロと同じですが、盲目な恋の行方を暗示させるような、違った印象が得られるのも面白い点です。

3、weak

 いきなり個人的な話で始まるのは恐縮ですが、最初にこの曲を聴いたときに強い既視感を覚えまして、長らくその正体が分からずにいました。生放送でサビのメロディが前作の「ワンルーム・シンドローム」と酷似していると聞いたときも、いやそれじゃないと思っていたのですが、最近ようやくその正体が分かりまして、平井堅の「style」という曲でした。ストリングスのアレンジやビート、サビのメロディもなかなか似ている気がします(だから何だという話ではありますが)。

 それでは本題に入っていきましょう。この曲はコードがなんとなく取れたので、進行について多めに触れていきます。

||:  G♭△7(13)  |・/・| F△7(#11)  |・/・ :||
| A△7  |・/・| Am△7  |・/・| G#m7  | C△7  | Bm7  ||

 イントロのコード進行です。グロッケンとストリングスのピッツィカートが交互に流れる冒頭は、G♭△7とF△7が平行移動する進行。この曲全体を通してメジャーセブンスの平行移動が頻出するのですが、それを予期させるイントロとなっています。シンセドラムの3連のフィルに導かれて奏でられるきらびやかなイントロは、ビブラートがかかったシンセの伸びやかなメロディと疾走感のあるビートが心地よいです。

| E△7  |・/・| D△7  |・/・| D♭△7  |・/・| C△7  | F9(#11)  |
| E△7  |・/・| D△7  |・/・| D♭△7  |・/・| C△7  | G♭9  ||

 Aメロの進行は多分こんな感じ。前述の通り、メジャーセブンスの平行移動が多用されており、調性感が希薄で都会的な印象を与えます。伊織さんのボーカルも透明感がありつつどこか儚げで、その表現の幅に驚かされます。ボーカルとハーモニーがそこまで激しく動かない分、ベースラインのクールさが目立ちます。F9(#11)のところのオーギュメントトライアドのアルペジオが良いスパイスとなっていて、上手く2つのメジャーセブンスコードを繋げています。

| F△7  | E7  | Am7  | Gm7 G♭7 | F△7  | B♭7  | Am7 A♭7 | Gm7 G♭7 |
| F△7  | E7  | Am7  | Gm7 G♭7 | F△7  | E7  ||

 サビの進行は前曲「darling」のサビとよく似ていて、かなりポップな印象。やはりAメロとの対比が美しいです。裏コード(tritone substitution)を多用したベースラインが滑らかに移動する進行で、ストリングスのアルペジオのラインもきれいです。サビではボーカルがリズミックになる分、ハーモニーの横の流れが感じ取れるアレンジになっています。

 2番の頭では大胆にストリングスとボーカルのみが鳴るアレンジとなっていますが、ストリングスの符点のリズムがあるおかげで、ビートはそこまで希薄になりません。遠くから再びドラムが現れて、オーギュメントのフレーズのところで合流します。

| A△7  | G#7  | C#m7  | Bm7 E7/B | A△7  | D7  | C#m7 C7 | Bm7 E7 |
| A#Φ(♭9)  | Am△7  | E△7/G# | E/G  |
| C#m D#m E・・ |・・E F#m  G#m | E♭Φ  | A♭7 ||

 2番のサビ終わりのCメロがこれまた非常にポップかつ凝った進行になっています(取ったけど合っているかあまり自信がありません)。大筋の進行はサビが転調されたものですが、2段目のベースの下降の仕方が非常にテクニカルで、田中秀和氏の「花ヤ踊レヤいろはにほ」を思わるハーフディミニッシュの使い方です。ラスサビはキーがD♭メジャーに転調するので、それに向けてラストにツーファイブを仕込んでいます。アイカツを影響源に語っているのもあってか、全体的に近年のアニソンを彷彿とさせる進行になっています。

 ラスサビはキーが半音上に上がり、最後の盛り上がりを見せます。エンディングはイントロのメロディが再び奏でられたのち、火照りを覚ますようにドラムのビートだけが残り終わります。

4、tear

 nil版「おやすみ」のような印象の、4拍子と3拍子が交互に入れ替わるピアノバラード。久石譲氏のような曲や、ジャズのソロピアノ曲を意識したとのことで、素朴ながらも胸を打つメロディがなんとも素晴らしい。

 冒頭、おもむろにピアノがコードを弾き始め、ボーカルが訥々と歌い出す様子は、ジャズバラードのヴァース(verse:歌の前語りの部分)を思わせます。声の低音の響きが心地よく染み渡ります。転調を繰り返しながらワルツのBメロに流れ込み、ロングトーンで次への期待を高めます。サビではボレロを思わせるスネアのリズムの上で、親しみのあるメロディが歌われます。なんだかCharlie Hadenの名盤「Nocturne」を思い起こさせます。

窓に差す月明り 景色を歪めて
狭い部屋の片隅で 抱え込む悲しみだけ
目が眩む日の光 意識を薄めて
何も出来ずにいた証が 溶けだして頬を伝う
その涙の中に

 歌詞も美しいですね。夜であろうと昼であろうと否応なく思い出してしまう深い悲しみに、ただただ涙を流すことしか出来ない。飾り気のないメロディと淡々とした歌い方が、余計に悲しみを聴き手に想起させます。

 サビが終わるとドラムとコントラバスが入ってきます。ドラムはライドとリムで2拍子のリズムを刻むことでピアノの3拍子のリズムと交差し、コントラバスはアルコでゆったりとベース音を奏でます。コントラバスとピアノのフレーズが終わった後、今度は淡いストリングスも加わってAメロに戻ってきます。

 その後の間奏はこの曲の屈指の泣きポイント。スネアのボレロのリズムとコントラバスのアルコの上で、枯れたピアノが誰に聴かせるでもないような内省的なソロを演奏します。月明りの中、誰もいない部屋に置いてけぼりにされてすっかりくたびれてしまったアップライトピアノを弾き、その孤独な美しさを静かに讃え、不可侵の悲しみを優しく見つめるような、そんな映像が浮かびました。

風が吹く昼下がり 水面を揺らして
深い海の奥底で 湧き上がる悲しみだけ
目が眩む日の光 意識を薄めて
何も出来ずにいた私が 溶けだして頬を伝う
その涙の中に

 ラスサビの最初は、ピアノの高音域の伴奏と歌だけで始まります。穏やかな昼下がりに風で水面が揺れる風雅な光景も、今は水中ずっと深いところにある悲しみが蠢いて、心の水面を揺さぶっているようにしか思えません。そうして私の意識は強い日の光に当てられて、涙の中に溶けだしていくのです。アウトロは果たして、その悲しみを受け止めてくれているのか、それとも涙に溶けだした私の意識の揺らぎを表しているのか。美しくも胸が締め付けられるような余韻を残す曲となっています。

5、sunshower

 アルバムの締めくくりは、「天気雨」を意味する爽快な曲で終わります。前作からの繋がりを感じさせる、4ビートポップスとなっています。アルバムを通して聴くと思うことは、この曲が最後で本当に良かったということ。もしtearで終わっていたら、きっとそのあまりに繊細過ぎる余韻を持っていくべき場所を見失っていたことでしょう。

 イントロのエレピの快活なリズムと奔放なヴィブラフォン、そこに切り込んでくる真っ直ぐなストリングスが、さっそく爽やかな印象を与えてくれます。ヴィブラフォンはこの曲全般を通して非常に重要な立ち位置にあり、ボーカルにぴったりとユニゾンしたり、ときにオブリガードを担当したりしています。Aメロはエレピのリズムがそのまま続き、今までの伊織さんらしいパワーのあるボーカルが入ってきます。Bメロではブラスセクションを意識したようなコーラスが入り、ベースも4ビートに切り替わり迷いなく前に進んでいきますが、いかんせん歌詞が暗い。そのギャップから、分からないものは分からないのだとヤケになっているような感じさえ受けます。サビ前のキメのリズムと一瞬転調するところがトリッキーですが、サビは再び4ビートになり、ベースラインが下降する進行でリズミカルに進みます。

痛みこらえて割れたグラスと 飛び散る破片は
身体を貫くが それも仕方なし
そつなくこなせちゃう 素晴らしい才能を求めてるの
それだけが 私には似合わない理想

 サビも決して明るい歌詞ではないですが、途中で「それも仕方なし」と言ってもらえることが救いになっている気がします。己の不器用さを呪ってはいますが、そつなく何でも出来てしまったらそれはそれで似合わないと、半ば諦めているのも共感できます。掠れた高音のニュアンスも活きており、伊織さんの技術の高さを感じずにはいられません。細かいですが、「そつなくこなせちゃう」のところでクラッシュシンバルのアクセントが1拍目ではなく3拍目に来ている部分にとてもジャズを感じます。

 Bメロではしとしとと降る雨のエフェクトが流れる中スタートしますが、すぐにストリングスのスケールとドラムのタムによるビートに打ち消され、いつもの調子へと戻ります。ヴィブラフォンとボーカルのスキャットのユニゾンは、夜色トリップへのリスペクトでしょうか。こういうジャズイディオムがふんだんに表れているところは、聴いていて安心します。

 Cメロのコード進行はサビとおおよそ同じものの、ドラムがハイハットに移り、少し落ち着いた印象に。今までのスウィンギンなアプローチとは異なるJ-POP的なメロディで、卑しくないものねだりをしたことへの天罰が下される様が歌われます。そしてロングトーンによる半音上への転調を挟み、ラスサビへと向かいます。

 ラスサビでも「それだけが」というのをことさら強調した上で、素晴らしくも憎らしい才能を望みますが、結局は理想のまま終わってしまいます。しかし聴いた余韻としては爽やかで、ダメならダメで仕方ないという感じも聴いて取れます。エンディングはサビのメロディのスキャットとシンセのトレードが繰り広げられ、イントロのエレピのリフに戻って幕を閉じます。

おわりに

 VTuber勃興期の2018年にバーチャルジャズボーカリストとしてデビューした高峰伊織さんですが、今作は鹿あるくさんを大々的にフィーチャーして、最早ジャズに縛られない作風のアルバムを生み出しました。アルバム「nil」を通して、まさにそのコンセプト通りの全く新しい高峰伊織像を見せてくれます。現在同じコンビで2作目をリリース予定だというニュースも聞きましたが、今度はどんな新たな一面を見せてくれるのかが非常に楽しみです。

 思いの丈を綴っていたら過去最長の記事になってしまいましたが、楽しんでいただけたら幸いです。今後ともVTuberの音楽業界に幸多からんことを期待して、今回の記事を締めたいと思います。

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