見出し画像

ヴィットリオ・デ・シーカ『ひまわり』

ヴィットリオ・デ・シーカ監督『ひまわり』を観る。辛口/ビターテイストな映画だなと思った。一応は悲恋を描いた映画なのだけれど、若き日のソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが出演している。しかし、アイドル的な魅力を振りまくというのではなく(このあたり、意見が別れるか?)むしろ細かいところまで芝居の旨味によって魅せていると思われるのだ。手堅く魅せていく映画、と言えるだろうか。流石は『自転車泥棒』(シーカの映画はこれしか観ていないが)の監督だなと思わせられた。

イタリアの第二次大戦の惨禍を少し知っておけば、この映画は理解しやすくなるのではないか。ファシズムという言葉を生んだ国であり、ムッソリーニが台頭して戦争に巻き込まれた国。そしてドイツと同盟関係を結ぶも、ロシアのシベリアでの進撃で失敗し出鼻をくじかれ敗戦に追い込まれた。とまあ、紆余曲折ある歴史をサラッと知っておけばロシアの女性がイタリア人の(つまり、彼女にとっては憎むべき的であるはずの)マストロヤンニを助けた優しさが浮き立ってくる。それを台詞で説明しないのも面白い。

私は変なところに注目して映画を観るのだけれど、この映画は女性の扱われ方がやや荒いのではないか、と思った。乳房を揉みしだく場面、服を引き裂く場面などに演技ではない本当の男の乱暴さを見たように思ったのだ。雪原で倒れた男の身体をひたすら引きずる場面も女性には酷だっただろう。そういう細かいところがリアルに作られているので、映画で男が見せるタフネス/マッチョイズムが際立ち女性もおしとやかさが強調されていると思う。リアリズム、というやつか。

ワンナイトラブを期待して女性がマストロヤンニを誘い、成り行きでルージュで鏡に伝言を描くところなど笑いを誘うところもあったが基本的にはわかりやすいメロドラマで、現実はそううまく行かないけれどそれでも愛を抱き続けることの尊さが身に沁みてくるようでもある。何気に貧乏生活が描かれているところも面白い。笑えるトーンで序盤が描かれているから後半の悲恋も際立つ。見事なストーリーテリング、とさえ言える(それにしても卵を24個も使うオムレツなんて本当に人が食べられるものなのだろうか。これはイタリア人の反応が気になるところだ) 。

イタリア人の映画監督を私は不勉強にしてフェデリコ・フェリーニしか知らない。だが、イタリア人気質というものは『自転車泥棒』(むろん、これはシーカだが)といいフェリーニ作品といい、甘美なものに惹かれながらそれに無防備に溺れることを許さないものだし、かつ笑いを交えながらその笑いでより一層悲しみを浮き立たせるものだという整理が成り立つのではないかと思われる。もちろんこのふたりだけで語るのは乱暴にもほどがあるというものなので「仮説」としてベルトルッチやアントニオーニなどに挑んでみたいと思う。

それにしても、50周年とは。この映画が公開された当初は(繰り返しになるが)どういう受け取られ方をしたのだろうかと思う。当時の貞操観念と今はもちろん違うし、女性の立場も随分変わった。だが、もちろん変わらないものもある。この映画はここまで散々仄めかしてきたが、結局はバッドエンドとも受け取れるエンディングを迎える。しかし、男も女も自分に忠実に、ハードボイルドな生き方を貫いて人生を歩んでいくのだ。停電した一室で繰り広げられる「見えない」ふたりの演技に惹かれ、シーカをもっと追いかけたくなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?