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ジェームズ・サドウィズ『ライ麦畑で出会ったら』

ジェームズ・サドウィズ監督『ライ麦畑で出会ったら』を観る。キャメロン・クロウの自伝的青春映画『あの頃ペニー・レインと』を連想しながら観たのだけれど、もちろんそんな人は私ひとりだけだろう。音楽が多用されているわけではないが、セピア色の青春群像を爽やかに描いていて下品ではないところ、朴訥とした語り口に似たようなものを感じたのだった。監督の実体験がこの映画の一部として結実しているという話なので、なるほどなと思わされた。

スジは単純。1969年全寮制の男子校で、体育会系男子が幅を効かせている世界でひ弱な文化系男子の演劇青年ジェイミーが『ライ麦畑でつかまえて』を舞台化したいと目論む。学校に、そして周囲の男子たちに「体制」の匂いを嗅ぎ取り自分はそんな「体制」と馴染めないが故に正しいのだと感じる主人公がそんな自分の心情を投影するのにうってつけだったのがJ・D・サリンジャーの文学作品だったというわけだ。だがサリンジャーはご存知の通り隠遁生活を送る孤高の作家。エージェントを口説いて住所の手掛かりとなる場所をガールフレンドのディーディーと一緒に突撃しようと試みる……。

主人公のイケてなさがいいなと思った。また頓珍漢な映画を引き合いに出すが、例えば『フェリスはある朝突然に』のようなアメリカの文化系男子を描いた映画の伝統にこの映画を位置づけてみるのも面白いかなと思ったのだ(単にカメラ目線で主人公が語りかけてくるところに似たものを感じてしまったのかもしれない)。ちなみにジェイミーは女性の名前。マッチョイズムを排した主人公の丁寧な造形がこういうところにも現れている。これみよがしなギミックを用いず、しかしそれでいて作り込みはしっかりされていると感じた。

あまりこういうタームを使ってなにかを語った気になってはまずいと思うのだけれど、主人公の姿勢は「文化系」のそれそのままである。要はスクールカーストの中でイケてない彼が、イケてる人たちやスクールカーストを作り出した人たちを指弾するためのもっともらしい方便としてサリンジャーを持ち出しているというわけだ。いじめはよくないのは当然のことだが、彼がいじめられるのも無理はないかなと思う。そんな鼻持ちならない……ようでしかし演劇に対する姿勢は真っ当。そこが好感を持てる爽やかな主人公として受け取れる美点になっているのだと思う。

そんな文化系男子はグラマーな金髪の女の子に惹かれるが、彼の傍に寄るのは赤毛でソバカスがチャームポイントの、可愛くてしっかりしている女の子。彼女が彼を密かに恋していることはもちろんこちらにはモロバレなのだけれど、ジェイミーは鈍感故にそれに気づかない。それにウブでもある。成り行きでふたりでひとつのベッドに寝るというイベントがありながらも、彼は手を出さないのである。いいムードになってきたというのに。このあたりも、しかしわざとらしさを感じさせない、お約束なのに好感が持てる不思議な展開になっていたと思う。

結果として彼らがサリンジャーに出会うかどうかは、ここでは語らない方が良さそうだ。ただ、ロード・ムービーが概ねそうであるように(あるいはこの映画のタイトルを忠実に訳するなら「ライ麦畑を通り抜けて」、つまり通過儀礼の意味合いが強いタイトルであることから伺えるように)、この映画も無理なく主人公の成長を語っていると思われる。一皮剥けた男の子となる過程を。そこで「体制」側の体育会系男子や学校の先生たちとの和解も成り立つし、希望を示してくれるエンディングを提示してもいる。「想定内」で全てが収まっているのに陳腐に感じられない不思議な魅力がある、面白い映画だと思った。

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