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Festa di Castagna 栗パーティー

秋が過ぎ、いよいよ木枯らしが灰色のパリやミラノの街を吹き始める頃、街路のあちこちに焼き栗の屋台が立つ。大鍋でごろごろ転がしながら焼いていたり、蒸気を使った仕掛けを自転車に積んでいるものもある。

 さて、栗の季節になると毎年思い出すことがある。もう四半世紀ほど前のことで、別になんらセンセーショナルな話というわけでもないが、これまで誰にも話したことのない話。ちょっと長くなるのでお暇な方だけお付き合いください。

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堕ち行くボローニャの貴族テレジータに知り合ったのは、チュニジアで現地調達したサハラ砂漠ツアーでのことだった。彼女はやはりヴェネツィア貴族のフランカと、おん年70オーバーの二人できままなバカンスを過ごしていたのである。

 その日帰りツアーの参加者はフランス人ばかりで、ガイドもフランス語だけだったので、英語もドイツ語も話すけどフランス語は苦手という、ある意味典型的な、この二人のちょっとシニアなイタリアーナにとって僕は恰好の話相手となったのである。

 まだ20世紀で SNS も何もない時代、別れ際は小さな方眼紙にブルーのボールペンで書いた住所と電話番号を交換して再会を期した。しかし縁というのは面白いもので、そこから10年ほど、毎年とは言わずとも2年に一度はテレジータに会うことになる。

 没落の途を辿りつつあるといっても、そこはさすがに貴族、普段はボローニャのアパルトマンで質素に暮らしているが、リドには夏の別荘があり、故郷のフェラーラには部屋が20ほどもあるという立派な城を持っていた。レモンの木がたわわに実を成す広大な庭園には専属の庭師が住み込みで手入れをしていたほどである。一緒にヴェネツィアにあるフランカの屋敷も訪ねたが、そこいらじゅう隙間のないほどに高価な美術品で埋まっていた。元ファッションモデルだったテレジータには、イタリア著明界の知り合いも多そうだった。

 僕は大抵、ミラノのリナーテ空港で週単位で車を借りたので、訪ねるたびに毎回テレジータと北部イタリアをあちこち巡った。迷えば彼女が道を聞き、名所や街の説明をして、そして僕はずっと運転をしていたので北イタリア、少なくともエミリア・ロマーニャ州の地理は、例として埼玉県や群馬県の地理よりも解るぐらいになってきた。たとえばラヴェンナの友達を訪ねよう、そしてリミニに行ってシーフードを食べようとか言うが、道は僕まかせだしナビもない時代、自然に覚えようというものである。

ある年の10月、スウェーデンに出張に行った際にそのまま休暇を取ってミラノに飛び、そこからまた車を借りてボローニャまでテレジータに会いに行った。10月の北イタリアは日本でいえば晩秋からもう初冬、道や公園は枯葉に埋まり日もすぐに暮れる。(それでもスウェーデンから来た身にとっては南国を感じた。)

 今回のテレジータの提案は、フェラーラの郊外に住む友達の家で「栗パーティー」(la festa di castagna) をするのでそれに行こうというものだった。どうやら栗をテーマにしたホームパーティーらしい。ボローニャからフェラーラまでは高速道路一本で、そこからは地道を行く。このあたりロンバルディア平原の秋は、薄く糊を流したような霧がポプラに縁取られた道路を低く漂い、まるで巨匠の絵画を見るように繊細な色彩が重なりゆく。

 友人宅というのは、広い芝生の庭を前にした全面ガラス張りのモダンな邸宅で、すでに何台もの、ランボルギーニ・・・とは言わずともポルシェやジャガーが横付けされており、僕が借りた VW Passato などみすぼらしく見えてしまう。100平米はありそうなリビングには、上品にめかし込んだ人たちがグラス片手に楽しそうに話しており、しがない東洋人の僕はドアの手前でちょっとたじろぎそうになる。

 すでに供されている前菜だけでも栗だらけ、正直なにを食べても栗。栗の料理にさらに栗のピューレ。パスタにも栗が練り込まれており、塩とオリーブオイルで食べるのだが、これは本当に美味しかった。というか、この食いしん坊がそれぐらいにしか記憶がないのだ。

 イタリアは日本とは比較にならないほどの階級意識があり、普段接するイタリア人とは違って、北イタリアの上流階級の人たちはこちらから必要以上の表情でもって話しかけでもしない限り、日本人など、見向きはすれどまともに相手などしてくれない。テレジータも僕を放ってあちこちしゃべりに行ってしまうし、社交界の術をよく知らない僕は、初対面で話す相手の名前と、何をしている人か、どこの出身か、その3つを覚えるだけで精一杯だった。

 とはいえ、なんだかイタリア映画というよりはハリウッド映画の一場面のようなセレブリティーの世界を垣間見ることができ、なかなか楽しい時間だった。イタリア語が達者ならもっと物怖じしなかったのになと思う。

 夜の1時を前に、その友人宅を失礼した。帰り道のテレジータは久々の社交界に接したせいか上機嫌。なんだか話しっぷりもいつもより上品になり、城の固定資産税の話をするときの表情とは正反対の元モデルの顔になっている。「マルコ、あなた良かったわよぉ、パーティーでね、みんながあなたのこと molto educato だと言っていて私も面子を保ったわ。educato というのはね、英語の educated とちょっとニュアンスが違ってね、・・・」と。

そりゃあ僕も栗そっちのけで頑張りましたもの。

 フェラーラの高速入口からボローニャに向かう高速 A13 に乗ろうとしたが、夜のことで間違えて別の方に進んでしまった。そのまま行くとアドリア海側に向かってしまいかなり遠回りになる。そこで次のランプで降りてフェラーラに戻ろうとした。主要幹線の A13 とは違って、地方道路はナトリウム灯もなく闇一色だ。

 そのときである、それまで上機嫌だったテレジータの表情が歪み出し、急に大声を張り上げて言ったのである。「マルコっ!この道は違う!あなた何!どこへ連れていくの!」と連発。「入る方向間違えたんだよ。このまま行くとコマッキオに行ってしまうから、このランプで返して一度フェラーラに戻るんだよ。」と説明したのだが、オー・マンマミーア状態の彼女は、「何よ!コマッキオ? コマッキオに私を連れて行ってどうするつもり!こんな夜中になんでコマッキオよっ!道が違うわ!停めて!私降りるから!パウーラ、パウーラ (怖い、怖い)」とハンドルに手を掛けてきそうな勢いなのである。

僕はもう無言になって一般道を100キロぐらいで走りフェラーラへの道を戻った。その間もテレジータはずっと金切り声を上げていたが、A13 の灯りが見えてきた所でやっと正気に戻り、Scusami Marco… (ごめんなさい) 、ほんとに怖かったの、と言った。

 そのとき僕は30代半ば、テレジータは70前後で母と同い年だったのである。今、考えても彼女が何をあんなに恐れて正気を失った状態になったのか。さっきまで褒めちぎっていた東洋人にまさかレイプされるとでも思ったのか、金品を奪って道に捨てられるとでも思ったのか、コマッキオに船が控えていて、まるで村上龍の「イビサの人間だるま」のようにされるとでも思ったのか。

 それまで何度も会って、いつも泊めてもらって、家族も全員知っていて、それでいてやはりどこか心の隅に外国人の異性に対する警戒感があったのだろうか。

 しかしボローニャに戻ったテレジータは、まるでいつもと同じだった。次の日にはパドヴァの友達の家に一緒に遊びに行ったし、スーパーに買い物に行ってしゃべりながらキッチンでおいしいトルテッリーニを作ってくれたりもした。特にその件にはもう言及することもなく。

 毎年、栗が出はじめると、なぜかこの話を思い出す。それ以降も、ボローニャに行ったときには顔を見せに行ったが、それでももうイタリアに行かなくなって大分となる。手紙しか通信の術を持たないテレジータと筆まめではない僕との距離は次第に遠のいていった。テレジータは母と同じ年齢だし、イタリアの平均寿命を考えるともしかしたらすでに鬼籍に入っているかも知れない。

 ほんとうに毎年、栗が出るとこの話を思い出し、テレジータを思い出す。 

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