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鏡の向こう③

 神戸駅で水風船が割れたような勢いで、電車からホームに人が流れ出た。同駅から再び乗り込んだ新快速の車両は、停車しない駅で待つ人々の顔が見えないほど、速く速く終点を目指していた。新大阪駅に到着したとき、すでに樹のシャツは汗でびっしょりだった。スーツ姿の大人たちが手や扇子で煽ぎながら四方に散らばっていった。
 日常的に自由席でチケットを取っている樹にとって、指定席に乗る行為は非常に新鮮だった。自由席の方が圧倒的に便利だと常に思っていたからだ。自由席であればどの新幹線に乗るか選択可能であるのだから、万が一にも乗れなかった場合にも損をすることがない、と考えながらも樹はこれまで一度たりとも電車に乗り遅れたことはない。
 火曜日の新幹線はサラリーマンばかりだが、満席というわけではなかった。チケットを取るときに隣同士を避けたのだろうか、空席の間隔は上手い具合に一つおきがほとんどであった。しかし東京駅に近づくにつれて席の空いた間隔が一つ、また一つと埋まっていく。若い観光客や老夫婦などを見かけるのは、京都や名古屋で旅行をしていたのだろう。
 熱海で乗ってきた若い女性が隣に座った。奇麗な容姿で派手な格好をしているこの女性は大学生に違いない、と樹は思った。11月初頭の平日に中学校や高校が休みになるとは考えられず、荷物はスーツケースはおろか、ポーチ一つも持っていない。化粧は覚えてから3年以上は経っているだろうという落ち着きがあり、自身をより美しく見せる術を持ち合わせているようだった。きっといくつかの住処を持ちそこを転々としているタイプで、その往路か復路に新幹線を利用しているのだろう、と決めつけた。視覚から得られた情報で樹が推理をして、それが正解であったことは一度としてないだろう。しかし樹は思考することに意味があると信じていた。
 東京駅に到着し、樹の乗る車両にいたほとんどの乗客はいなくなり、樹を含めて6人となった。しかし、この若い女性は降りなかった。里佳を除く奇麗な女性が得意でない樹は、東京駅から新横浜駅までの短時間ですら、隣の席に座られることが苦痛であった。
「すいません、大丈夫ですか?」
若い女性が突然話しかけてきた。
「顔色が悪そうだったので…」
驚いた。そんなにもわかりやすく顔に表れていたというのか。少し恥ずかしさもあった。
「大丈夫です。すいません」
 容姿が奇麗であっても、里佳とそれ以外の女性には大きな違いがある。芸術的な美しさを持っているのだ、と樹は心の中で呟いた。里佳は忍耐強さと冷静さ、そして優しさを樹がこれまでに会ってきた誰よりも持っている。誰かを貶したことなど一度だってない。自らなんでも受け入れ、持ちうるものを分け与えるまさしく女神のような女性だと思っていた。瞳は碧く髪は黒柿よりの茶色で、彼女を見ていると、樹はボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を思い出した。髪色は父親譲り、瞳は母親譲りであるという里佳は、容姿を除いて両親との繋がりを知らない。もちろん、樹もそれ以上何も知らなかった。

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