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鏡の向こう②

 久しく実家には帰っていないな、と樹は思った。祖父母のいがみ合いを見ることも、引き籠もりの兄と顔を合わすことも避けたいと考えていたからこそ、年末年始もお盆も、里佳と過ごすことにしていたのだ。
 新幹線の指定席は7時55分に新大阪駅を出発することになっている。JR新長田駅から徒歩10分ほどのアパートを出て新幹線の時間に間に合わせるには、遅くとも6時50分には出発しなくてはならない。しかし樹には決して乗り遅れることがない自信があった。朝の準備にかける時間が短いことを、毎日、得意げに里佳に話す樹のファッションスタイルは、ワックスやヘアスプレーは用いず寝癖を整える程度に髪をぬらすだけで良い短髪に、こだわりのないTシャツとデニムのパンツだった。
 素早く準備を済ませ里佳に出発の挨拶をすると、樹は駅に向かって歩き出した。いつも買い物のために立ち寄る商店街はトラックが一台泊まってはいるものの、指の関節を鳴らす音が響くほど静かである。同じように駅に向かうサラリーマンや学生をじわじわと追い抜く速度で歩きながら、駅と逆向きにすれ違っていく人はいったいどのような仕事をしているのだろうかと樹は考えていた。
 いつも早足で歩くので、樹は駅で電車を待つことが多い。乗るべき電車が来るまでのおよそ6分間、樹は目を閉じてイスに腰掛け、ホームにいる老若男女の声を聞いていた。
「駅員さん、どの駅で乗り換えるのが一番早いのかな?」
「神戸駅で快速に乗り換えてください。それが一番早いですよ」
「ぼくトイレ我慢できない…。パパ、お腹痛いよ」
「どうしようか、もうすぐ電車来るんだけどな」
「おばあさん、こちらに座ってください」
「ありがとうね」
「夏子いま学校の怪談について記事書いてるらしいよ」
「そうなんだ。次の学級新聞楽しみだね」
「なあ、そこの自販機で缶コーヒー買ってきてよ。お前の分も渡すから」
「ありがとうございます。いってきます」
 アナウンスが聞こえ、席を立つと目の前には樹がホームに到着した時の2倍ほどの人がいた。列の最後尾に並び電車に乗り込み、樹は弁当に詰められたご飯のようにぎゅうぎゅうになった。乗客の多くはは両手でつり革に掴まり、窓の外を眺めていた。樹もそれに倣って人に触れないように気を遣いながら、つり革に手を伸ばした。

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