ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』 読書会用の終わらないメモ(ネタバレしてます)

このブログは、第3回「終わらない読書会―22世紀の人文学に向けて」の予習用メモです。
以下、たくさんの刺激的なトピックリストは、講師をされる予定の八木悠介さん(ロレーヌ大学博士課程)の提供です。ありがとうございます。
頁番号は、ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』中村佳子訳 河出書房新社 2016 年(文庫本版)
ただし、私はKindleで読んだので頁がわからず、引用元なしは全て「ある島の可能性」で引用頁は省略しました。すいません。

1 献辞の宛先、アントニオ・ムニョス・バレスタとは誰か?(6頁)

スペインの胡散臭い「リベラル・リアリズム」哲学者だそうです。ウエルベックと対談して写真まで公開している仲良し。
http://realismoliberal.blogspot.com/

2 序文は誰によるメッセージか? ハリエット・ウォルフとは誰か?(7頁)

https://www.journalismusfest.org/harriet-wolff/
https://taz.de/Harriet-Wolff/!a2877/

ドイツのジャーナリスト・写真家
フランスに関する世俗主義・政党とメディアなどを研究しているらしい。
このインタヴューはウエルベックが受けた本物なんですね、きっと。

4 受肉 incarnation(神学用語)の選択の意味?(11頁)

ふつうに、キリストの受肉をイメージさせるためかと…。

6 ダニエル1のコメディはなぜウケるのか?(24 頁他)

差別的でスナッフフィルム的。ダニエル1の「ユーモア=笑い」観

変革者と同じように、ユーモアに携わる人間だって世界の残忍さを受け入れ、一段と激しい残忍さで世界に応酬しているのだ。しかしながらその行動が、結果的に、世界そのものを変えることはない。ただしその行動は、変革のために必要な暴力を「笑い」に転化し、世界を許容できるものにする──ついでに、まずまず金にもなる。

ユーモアや笑いの感覚(僕はこれをいやってくらい知っている。そのために散々苦労してきたんだから)が、完全に勝利するのは、すでに武装を解除した相手を攻撃の対象にした場合、たとえば、宗教心や、感傷主義、犠牲的精神、体裁を気にする感覚、などを攻撃の対象にした場合だけだ。逆に、人間の品行を決定する本質的、利己的、獣的な因子に対して、笑いはまるで無力であり、いかなる害にもならない。

7 ネームドロッピング(カールラガーフェルド、ビョーク...)の意味? (41 頁他)

ウエルベックは『闘争領域の拡大』からずっと、スノッブ的なネームドロッピングを続けているが、フランスではこれ、伝統的な enfant terrible の手法では?
わざとスノッブな現代性を際立たせる。ソレルスとかも大好き。(『闘争領域の拡大』でソレルスも登場するし)
ちなみに、ラノベもこれが大好物。分断した集団(オタクとか)でも十分な市場として機能できる時に、他の集団とは違うことを際立たせるために社会的シグナリングとして使う。

9 ダニエルとイザベルの職業の意味は?

イザベル=ビッチな少女養成雑誌「ロリータ」編集長

舞台の上で命を張っている男性に娘たちがあげられる褒美、つまりそれが彼女たちの体なの。(…)大昔からある図式によって配分されている。ただ流行や時代によって多少バリエーションが異なるというだけ。若い娘向けの良い雑誌というのは、ほんのわずかでもそのバリエーションを先取りできる雑誌のことをいうの

ダニエル=コメディアン

いくら大衆が僕をクビにしたくても、連中にはそんなことはできないからだ。誰にも僕の代わりはできない。まさしく僕は取り替えが利かないんだ

イザベルのダニエル評

なにか変わった事件があったのか、受けた教育に由来するのかはわからないけど、こんな人間が同世代にふたりと生まれることはないでしょう。たしかに、あなたが人々を必要とする以上に、人々はあなたを必要としている。少なくとも、私の世代の人間には必要だわ。

イザベルの雑誌評

でも数年後には、状況も変わってくる。あなたも私の働いている雑誌を知っているでしょう。私たちが創りだそうとしているものは、まがいものの、薄っぺらな人間なの。それはもはや真面目にも、ユーモラスにもなれない人間、やけくそになって死ぬまで娯楽やセックスを求める人間よ。一生キッズでありつづける世代。私たちはそういう人間をきっと創りあげるでしょう。そしてその世界には、もはやあなたの居場所はない。

16 クローンについての技術的説明の少なさ(82 頁他)は、単なる設定に過ぎないからか?

カズオ・イシグロと比べたら、多めではないか? もちろんSFとして読めば物足りないけれど。
設定だから背景に隠しているわけではない、という説明ならば、ダニエル24,25は技術者ではないし、「知っている」のは一般的な歴史とダニエル1の「人生記」と2〜23,24の「注釈」だけだからではないか? 

 ピエルスの第一法則によれば、記憶と人格は同一のものである。つまり人格には、記憶化できるもの以外は存在しない(この場合記憶とは、認識のそれ、手順のそれ、あるいは感情のそれを指す)。たとえば、僕が僕であるという感覚が睡眠によって解体されることがないのは、記憶のおかげだ。
 ピエルスの第二法則によれば、認識の記憶を適切にサポートするのが言語である。
 ピエルスの第三法則は、バイアスのない言語の条件を定義している。

 コンピュータを介した失敗の多い記憶のダウンロードは、このピエルスの三つの法則によって廃止された。具体的には、分子の直接転送と、現在我々が〈人生記〉と呼んでいるものがそれに代わった。当初〈人生記〉は単なる補足要素、暫定的な処置としか看做されていなかったが、ピエルスの研究が進むにつれ、その重要性が認められるようになった。おもしろいことに、こんなふうにして、まさに最先端の理論が、古の書式、かつて〈自伝〉と呼ばれたものに酷似する書式を見直すきっかけをつくったのだった。
 〈人生記〉について、具体的なきまりはない。人生のどの時点から書きはじめてもよい。たとえば絵画を鑑賞するときに、どこから見はじめてもいいのと同じだ。重要なのは、徐々に全体が見えてくることだ。

17 犬の「無条件の愛情」とは?(88 頁)

完全な「利他」、遺伝子で説明できない心。

つまり親切、同情、誠実、利他の心は、我々のすぐそばにありながら、依然として不可解な謎である。ところがそれは犬という小さな器の内に含まれている。未来人の到来の如何は、この問題の解決にかかっている。

19 ダニエル1は、テイヤール・ド・シャルダンをどう思っているのか?(86-88 頁)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3

テイヤール・ド・シャルダンというのは、もちろん「がむしゃら一等賞」と呼ぶにふさわしい作家だ。いずれにせよ徹底的に気の滅入る奴である

色欲というのは軽い、ほんのちっぽけな罪であって、人間を救済から遠ざけるほどの罪ではない──唯一の本当の罪は傲慢の罪であると信じていた。

もしテイヤール・ド・シャルダンにエロ作品でも見つかれば、ある意味、ほっとするのだが、と考えてみて、それはないとすぐに打ち消す。いったい全体、この憐れなテイヤールは、どういう生き方をして、どういう連中とつきあって、あんな煮え切らない愚かな人間観を持つに至ったのだろう? (…)彼の献辞や、文通相手の宛先を通して、彼と親交のあった人々の顔も見えてくる。それはいわゆる上品でおしゃれな人々、カトリックで、とにかく貴族かなにかで、しばしばイエズス会に所属するような人々だ。ようするにお人よしどもである

20 数多くの修辞記号(「」、<>、傍点など)はなにを示しているのか?(123 頁他多数)

「欲望」、「感情」、…
<刑事>、<学者>、<ユモリスト>、<大乾燥期>、<健康優良児>、<ヴァンサン>、<至高のシスター>、…
互いの合意の上での大人の関係、…

読んでいて感じるのは、その単語への語り手の「距離」、批評しようとする「態度」、<アイロニー>、「皮肉」、…

27 エステルとの出会いは「自由意志」のない「前提」だったという表現は、なにを言わんとしている?(193 頁)

え? 一目惚れしたってことの大袈裟な表現じゃないの?

32 (ジャンルとして)「終わっている」「詩の立ち位置」が「大昔の原始的な場所」と指摘されているこ との意味とは?(203 頁)

ネオ・ヒューマンの「注釈」が詩的であることに通じる?
詩は前論理的な場所に住む表現。論理でできているネオ・ヒューマンが「論理的に」「前論理的な」詩によって「人生記=記憶」を補完することで、遺伝と神経化学反応としての記憶に「心」が「エピジェネティック」に付加される?

40 本編で頻出する夢の役割とは?(247 頁他)→「夢の世界を見せる、ありえない世界を見せること」 (335 頁)と呼応?

本編(ダニエル1?)には夢はそんなに出てこないのでは?
ダニエル25が頻繁に夢を観ている。
「夢の世界を見せる、ありえない世界を見せること」は、ヴァンサンの地下室の「幸福」だけでできているアートのこと。
ダニエル25-4で、夢は量子力学の多世界解釈での「分岐した世界を見せる」と言っている。夢が分岐した世界なのか?

56 「人間の真の目的、望みのある限り人間が自発的に求めつづけてきた目的が、もっぱらセックス方面にしかないという真相」(358 頁)の世界は、現実の世界か、それともダニエル1の虚構の世界か?

ダニエル1の虚構の世界といえば、それはダニエル1が書いている「人生記」なのだからもちろんそうだと言えるが、ダニエル25-8で言ってるのは、結局、人間の文明は知性で築かれたけど、人間の「本能」は遺伝的には数十万年前と変わっておらず、相変わらずセックスと老いと死に支配されていて、だから苦悩が生まれる、ということで、多分、それは、現実。

61 「わずかでも説得力のある説明をされれば、新しい信仰に身を任せる準備はできていたのだ」(395頁)→テイヤール・ド・シャルダンを意識?

そうなのかな。そうなのかも。
テイヤールは、古い皮袋(キリスト教)に新しいワイン(進化論)を入れ、オメガポイントとしての不死、という「信仰」を「愚かにも」作ろうとしたのだから。

62 「前預言者の特徴だったあの吐き気のするような写実主義」(404 頁)→MH 自身の性愛描写に近い?

ここは、ぜひ、問いたい。
なぜ、ウエルベックは、しつこく「吐き気のするような写実主義」の性描写を繰り返すのか? 「人間の真の目的、望みのある限り人間が自発的に求めつづけてきた目的が、もっぱらセックス方面にしかないという真相」(358 頁) を告発し続けるためだけなのか? 言っちゃあ悪いが、スキャンダラスに書くことで、お行儀の良いリベラルに反感を持つサイレントマジョリティにリーチして売るための戦略じゃないと言い切れるのか? つまり、ウエルベックはダニエル1でもあり預言者でもあり、カルトを皮肉に見ながらカルトを告発する身振りをする、あざといと思う。

67 ダニエル1の特性=「とても正直」の含意とは?

ダニエル1の「人生記」は、ダニエル1にとってのみ(主観的に)正直であるのではなく、とても(客観的に)正直だと言うことじゃあ? まあ、コメディアンとして、対象を突き放して見る訓練をしているとか、そういうことを含めて。
つまり、ここに書かれていることは全て、「現実」>「ウエルベック」>「ダニエル24,25」>「ダニエル1」>「現実」という円環を成している。

72 ある島の可能性とはなにか?(474 頁)

https://fr.wikipedia.org/wiki/%C3%8Elot_de_pathog%C3%A9nicit%C3%A9

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%97%85%E5%8E%9F%E6%80%A7%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E5%B3%B6_%E7%97%85%E5%8E%9F%E6%80%A7%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

https://web.archive.org/web/20051026231847/http://www.jenner.ac.uk/BacBix3/BACdef.htm

https://www.natureasia.com/ja-jp/reviews/highlight/10937

https://fr.wikipedia.org/wiki/%C3%8Ele-de-France

Îlot de pathogénicité
「病原性島」という、細菌の水平伝播の仕組みに、「進化」の可能性がある、と?

永遠にひとつになって、生まれ変わるそのときに。

Île-de-France

Une explication plus historique voit en « Île-de-France » une altération de Liddle Franke, c'est-à-dire « Petite France » en langue franque[39]. Cette région est en effet une des terres d'enracinement du peuple des Francs, depuis leur pénétration en Gaule, lors des grandes invasions

https://fr.wikipedia.org/wiki/%C3%8Ele-de-France

フランク族が根を下ろした場所。フランスの中心。フランスの可能性。

それは時間の真ん中に存在する
それはある島の可能性。

78 ネオヒューマンとしての生=読書するだけの生活(『闘争領域の拡大』で理想的な生活として描かれていた生活)からの出発が意味するものとは?

書を捨てよ、街へ出よう?
身体性とかを取り戻せ? 捨てた「性と死と老い」にこそ、結局、人間の本質があったとかそういうこと?
まあ、そうであったとしても、

 世界の外にはなにがあった?

かと言えば、狂った地図(NYから歩いて大西洋越えるとか、リベリア半島を縦断して地中海を越えるとか)に支配された世界。

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