ネタばれ注意 『わたしを離さないで』(2023/02/11 文末追記)

『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ 土屋政雄=訳

2006年4月30日初版だから、17年ほど発酵させました。
当時、盛大にネタをバラされたのでそれを忘れるまで積んでおこうと。
結果まったく忘れられず、余計に先入観を持ってしまいました。

「子どもたちはクローン人間で内臓を提供するために育てられている」

 ところが、1ページ目から「提供者」「介護人」「回復センター」など、けっこう明からさまに匂わせていて、あまり隠すことはしていないし、かなり早い段階で内臓の話が出るので、わかる人にはすぐわかる気がする。
そもそも、子どもたちが次々にどこかへ連れて行かれるという設定は物語元型に近くて、グリム童話(お菓子の家)やハーメルンの笛吹き男、間引きの話など、「共同体を救うために子どもが捨てられる物語」で共通し、近いところでは『約束のネバーランド』などもある(これは『Never Let Me Go』にも影響を受けているかもしれないけど)。

 つまり、この設定は解くべき謎ではなくて読者に早々に気づいてもらうことが前提になっている。その上で考えると、もっと大きな謎がある。
 (1)なぜ彼らは、自由で移動手段があるにも関わらず、逃げないのか?
 (2)キャシー・Hは、誰に語りかけているのか?
 (3)なぜキャシー・Hは、これほどまでに冷静なのか?

 一つ目は、とりあえず、提供者としての使命だけが存在理由だから、と読める。
 二つ目は、最終第二十三章で「これをお読みの方も」と明かされて、キャシーの回顧録であることがわかる。
 そうすると、三つ目は、非常に薄気味の悪いことに、キャシーが介護人から提供者に変わりつつある時期に、使命を受け入れて冷静に昔を思い出し、心の理論を駆使して関わりのあった人たちの情動を緻密に推測しながら、感動的でエモーショナルな物語として回顧録を綴っている、ということになる。

 アメリカならクローン人間が体制に反抗して人間性を回復する話にしそうなものだが、イギリスでは淡々と受け入れてしまうのだろうか。あるいは、カズオ・イシグロの日本人の血がそうさせるのか。

 結論として、キャシーの冷静さこそが、この作品の本来的な「恐怖」である。
 提供者として生きる(死ぬ)ことを受け入れている家畜のようなクローン人間にも「魂」があることを、「記憶」と「理性」と「感情」を総動員して証明しつつある、その現場に立ち会わされている、と読者が気づくその瞬間に、この作品が本当に恐ろしいものとして生々しく現れる。(追記*1)

 …といった感じで読めば、「エモすぎる=ダメ作品」説には対抗できるなあ、と思ったわけですが、でも、文句がないわけじゃない。
 もしかしたらこれもイシグロの「信頼のおけない語り手」のせいかもしれないけれど、かなり無理のある設定すぎる。

(1)最後のエミリ先生の説明では、「50年代初頭から」クローン技術が花開き「70年代後半に」反対運動がピークを迎えたことになっている。
 いや待て。クローン人間を育てて移植する内臓を取り出すまでには少なくとも10数年は必要だ。どんなに早くても60年代末だろう。それから数年で全世界がクローン人間からの臓器移植を当然のこととして受け入れるのは無理だろう。
 あるいは一部の特殊な制度であったなら、70年代に「家畜にも苦痛のない生活を」運動があるのは不自然すぎる。やるならクローン人間そのものの中止運動だろう。

(2)コテージに集まったヘールシャム以外の施設から来た提供者が、あまりにも人間的すぎる。
 エミリ先生によれば、他の「ホーム」は目を覆うばかりに非人道的であるとのことだが、コテージでプルーストやジョイスを論じたりしているではないか。
 あるいは、ヘールシャム以外のエミリ先生配下の施設(グレンモーゲン、ソーンダズ・トラスト)から集められたのかとも思うが、彼らもヘールシャムだけが特別であるとしつこく言っている。また、キャシーの弁の通りなら介護人として会った様々な提供者も、普通の人間としてコミュニケートしている。
 この非人道的で「家畜にも苦痛のない生活を」運動をも潰すほどの制度のなかで、クローン人間を「人間」として育てたりするか? なんならロボトミーでもして感情を失わせた方がよほど人道的ではないか?

(3)なぜこれほどまでに提供者(介護人)を自由にしておくのか?
 完全に洗脳して決して裏切らないという自信があったなら大失敗している(実際に「猶予」を求めている)。内臓のためだけに大量の提供者を何十年も「飼育」するコストよりも、社会の中で自給自足させるようなシステムの方が利にかなっていたのか? かなり危ういが。

(4)そもそもクローン人間が臓器を提供する先は誰なのか?
 よほど多様なクローンを育てておかなくては、拒絶反応で移植できない。ルースが言ったような下層階級が売血のようにクローン元になるのであれば、もっとマイノリティがいてもよさそうなものだが。
 あるいは、「ポシブル」は「自分専用のクローン」を作るのではないか? だとすれば拒絶反応もなく高額の医療費を賄える階級だけの特権として運営できるが、(3)の設定と整合が取れない(少数ならずっと施設で「飼育」した方がいい)。
 そういう(矛盾した)設定をあからさまにせず、「ポシブル」を意図的に曖昧にしたのか。

 とまあ、前作『わたしたちが孤児だった頃』なら、種明かしそのものが信頼できないので問題ないのだけど、こちらは微に入り細を穿ってキャシーの目から見た世界を正確に再現したものでなければならないのだから、もしキャシーの記憶や理性や感情に何らかの操作が加えられているなら、この作品自体の意味が瓦解して…、あ…。(追記*2)

追記

*1) この作品自体が、キャシーへのリアルタイムのインタビューではなく、練りに練った回顧録であると読者が気づいた時に、キャシーが自分の人生を受け入れている「のではなく」、受け入れられるような人生として「再構成している」ということに思い至る。
 家畜に理性や感情があれば自分の生をどう意味づけるか、というように読めてしまう生々しさがある。
 例えば、臓器提供者(家畜)としては不要なセックスをなぜあんなに書き続けるのか。決して提供者以外とは行われず、繁殖とは関係のない、とことん閉鎖的なコミュニティであることを強調してでも、キャシーは家畜の性的な感情を書き残したかった(がためにあの気持ちの悪いベタベタにエモーショナルな表現に「なってしまう」)
 例えば、マダムがヘールシャムでキャシーたちとすれ違うときに嫌悪感を示すことをわざと先に書いておいて、最終章で、マダムの「善意」が「本能的には嫌悪(恐怖)している家畜への善意」であることを読者に分からせるように緻密に表現して、自らの理性を強調「してしまう」。
 そういう「家畜としてのキャシー」が目の前に生々しく現れてくるときに読者は初めて恐怖するのだと思う。

*2) 追記*1のような「回顧録」を書いているのは、実際にはカズオ・イシグロという現実の作家なので、キャシーは二重の意味で「家畜」になっていることも、恐怖のひとつであろう。

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