アイデア倒れです。これを根拠立てるには戯曲といえども余白が足りない。
普通に読めば、キルケはユリシーズに今まで現れた端役、言い回し、場面、服装、動作、物、場所などをパッチワークすることで、1904年6月16日の、スティーヴンでもブルームでもない、作品「ユリシーズ」の大人の夜を描いたもの、だと思うのですが。
しかし、それは話が逆なのではないか。このキルケ、実はいちばん最初に書かれた挿話、つまり「第1挿話」なんじゃないか。挿話というよりもノート、創作メモがキルケの原型だったんじゃないかという疑惑。あれだけ精緻に伏線や照応を張り巡らせた長大な作品を、創作ノートなしに書くことなど不可能。キルケはジョイスのネタ帳だった。
つまり、テレマコスから太陽神の牛までの膨大な「意識の流れ」から、ブラックホールに吸い込まれるようにキルケに落ち込んでいる「パッチワークの素材」を探すという視点ではなく、キルケの中にある素材が、これまでの作品中に「どう反映されているか」という視点でユリシーズを読むことになる。文字通り「無意識がどうやって意識を生み出していくか」という力動的な読み方になると思うのです。
例をあげると。
ブルームの女性性、マゾヒスティック、権威主義、反宗教という人物像に、さまざまな言葉や動作や物や服装が脇役が蝟集して、ブルームの周りに「意識」を形作っている。
この「無意識」はここに吹き出している。
鼎訳ではなんのことかわからないけれど、無意識を踏まえていれば、pinprickのmarkは、彼(ブルーム)のすぐ近くにモリーが描いたモノだったとわかる仕掛け。しかも、10挿話の次に来るのはブルームのエロ本屋台漁りという流れるような「意識」。
あるいは。
これは踊っているスティーヴンではなく、ブルームの以下の「意識」にどろりと流れ出る。
ブルームは「無意識」の時の踊りとダンスとヘイホーの暗い音という素材を、モリーとボイランの最初の出会いに結びつけているわけ。
さらに。
このユリシーズの集合無意識は、ここに顔を出してしまう。
これも翻訳ではわからないが、スティーヴンの「意識」に ブルームの死んだ息子「Rudy」がモリーの編んだwoolのシャツを来て産婆の鞄に出現している。
ちなみに、モリーがwoolでRudyの衣装を編んで埋葬したという「意識」は以下にある。
なんてふうに、ユリシーズそのものがキルケから溢れ出た意識の流れであると、そう私は言いたかったんですが、ちょっと無理ゲー。