ネタばれ注意 『クララとお日さま』

『クララとお日さま』カズオ・イシグロ 土屋政雄=訳

かなりnegativeで断片的な感想を羅列する。

 AFが何の略称なのかは作中では明かされていない。解説で人工親友と書いてあるのを見ると、どうも Artificial Friend ととるのが一般的なのか。しかし、ラストの廃品置き場のシーンを見ると、とても Friend の扱いとは思えないので、Artificial Figure か、あるいは Artificial Flower で太陽光発電ではなく、光合成しているのかも。

 店の真ん前のRPOビルは Recruitment Process Outsourcing のことであろうか。もしかしたらこれを文字って Replacement Process Outsourcing、つまり、人をAFに「置き換える」商売を請け負っている会社か。もしかしたら、廃品置き場のAFはRPOビルで「置き換えられる」のかもしれない。新品AFの店の目の前に、AFの仕事の斡旋業があるなんてのは、病院の目の前に寺があるようなもので、イシグロの皮肉なユーモアかも。

クーティング・マシン(Cootings Machine)は、COO(CO2=二酸化炭素)を排出する機械というもやっとしたブラックユーモア的な機械か。

それはともかく、『わたしを離さないで』から一貫して、イシグロは作品設定を細部まで詰めない。SF的な設定であるなら、どういう技術や経済や社会なのか倫理感はどうなっているのか、という普通は作品の基盤となるようなことを、強い意志で蔑ろにしている。ここでSFと思って読んでいる人はふるい落とされる。

また、『わたしを離さないで』から中心に現れていながら、本気なのか皮肉なのか判断のつかないテーマ、「真実の愛は死を乗り越える」というやつ。これが本作では、ジョジーの奇跡による回復でどうやらマジ卍らしいということで、鼻白らんだ人が脱落する。

しかし、イシグロの腹黒さは、ラストで必ず語りをぶらして、それまでのエモーショナル極まりない物語を、解釈の曖昧さに放り投げて文学チックにする。
(negativeにお送りしています)

本作のラストはある意味、今まででいちばん衝撃的で、さんざっぱら感情移入させてきたし、作品内の主要人物から愛されもしてきたAFクララが「意識を持ったまま」廃品置き場に放置されるという、ちょっと信じがたい結末。
クララがそれを受け入れるのは、もう、イシグロの十八番なので大目に見るが、ジョジーもジョジーの母親もリックも誰一人、クララを最後まで看取るべきだとは言わなかったのか。お前らそれでも人間か?

と激怒させるために、この作品を引っ張ってきたんではないか。つまり、この物語はAF=人工知能が語る記憶の物語なので、もしかしたら、クララの思い込みだけで、実際にはルンバ並みの扱いしか受けていないのに、過大に positive な感情に彩られた記憶を持つようにプログラムされているだけなのかもしれない。
記憶を彩る人工的な感情(Artificial Feeling)の有り様を切なく描いた、とノーベル文学賞に免じて好意的に受け取っておくことにする。(何様)

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