見れない映画16:論破②


・坂口恭平の「論破」のこと


「いやあ、ちょっといないですよ、自殺相談電話で相手を論破する人」

坂口恭平、斎藤環『いのっちの手紙』中央公論社、2021年

そう語るのは精神分析医の斎藤環だ。

第14回の続き。ひろゆきと坂口恭平は似ているのか、という思いつきから書く。

「いのっちの電話」と称して、自殺相談の電話を自前で受ける活動を続ける坂口恭平との往復書簡でのことである。
斉藤が言及しているのは、2020年11月1日の朝日新聞のインタビュー。「なぜ電話に出続けるのか」という記者からの質問に、相手から「念」をもらうのが「JOY(喜び)」だからと答えた坂口は確かに「哲学ってことですよ。知る喜びということです。古代ギリシャでは、知ることの喜びを高らかに歌っているんです。新しい人と出会ったり、その人の考え方を知ったり。そして、その中で、説得するとか、論破することが大事です」と答えている。
それで実際、自殺相談者を論破するとははどういうことだろうか。
「いのっちの手紙」では、仕事がうまくいかないことを理由に自殺を思い立って坂口に電話をしてきた男性とのやりとりを具体的に取り上げた後、彼はこう振り返る。

「これは論破というよりも、悩みを無視して、スライドして、すり替えて、騙して、むしろ本来の問題である彼の仕事での所作についての議論に持っていったという感じでしょうか」

坂口恭平、斎藤環『いのっちの手紙』中央公論社、2021年

確かに。坂口は、「論破」=「解決」のためには悩みを無視することを条件にあげる。その悩みに「寄り添」わないのが彼の技術なのだ。躁鬱病の当事者として彼はこのように理由を語る。

「僕が自分の経験から感じていることは、死にたいと感じている、つまり、深い鬱状態の時には、基本的に全ての判断が間違ってしまっています。だからその悩みという枠の中に僕も入って、それで一緒に解決しよう、まずはあなたの感じている悩みを全部吐き出してくださいと言って、聞いてしまうと、僕までおかしくなってしまうことが多いです。そこに解決はありません」

坂口恭平、斎藤環『いのっちの手紙』中央公論社、2021年

躁鬱病の当事者でもある坂口は「鬱状態」とは何かに、一過言ある。それで、「悩み」を解決するためには「寄り添い」を退ける必要があるというのが彼の解決案の肝なのだ。これをもう少し大きなスケールで考えてみたい。

「脱炭素の言説ってそれ自体はいいことだとしても、自己否定をともなう葛藤がつきまとう感じがする。(中略) 僕はこの問題の専門家ではありませんが、ここには、いまの社会を考える上での大きなポイントがあると思うんです。それは、「葛藤」が問題の本質を遠ざけているのではないか、ということです。むしろ「葛藤」が商売になっていて、ビジネスの観点に立つと「葛藤を克服されては困る」というムードすら感じます。」

https://newspicks.com/news/10426119/body/https://newspicks.com/news/10426119/body/

つまり、悩みを悩みのまま抱え続けること(「寄り添い」)には意味があり、はっきり言えばお金になる。悩みは解決を望んでいるのではなく、同じ悩みを共有してくれる共同体の仲間を募るための呼びかけとして機能しているようだ。

しかし坂口は「その悩みを乗り越えた先でしか社会的イシューは立ち上がらない」として、脱炭素が結局は、人類の生存の問題だからということで彼自身の自殺相談の話にこれがスライドしていく。このスライドには、本当にそれするの? という訝しさがつきまとうけれど、考えたいのが、彼が個人的に取り組んでいる「いのっちの電話」が彼にとってはグローバルな環境問題のようなスケールの問題としてある可能性だ。ということで、決して網羅的にではないが、私があくまで思いつくような範囲ではあるけれど、彼の活動を「論破」を軸に遡ってみる。

・「現実」を論破すること

坂口恭平の思想について、近くにあった『現実脱出論』(講談社現代新書、2014年)、『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書、2011年)を手に取ってみる。前者に、現実とはなにかの端的な定義がある。

「現実は、集団が形成される時にうまくコミュニケーションが行えるようにと、細部に少しずつ意図的な補正が施された仮想の空間である。現実はリアルではなくヴァーチャルなのだ。だから、至るところに矛盾が溢れている。細部も見てみると、正確であることのほうがむしろ少ない。現実と自分の感覚がうまく調和しないなと感じるのも当然である。
混沌とした無数の知覚や空間が存在している複雑な世界を、単純化することによって現実は生まれた。だから、現実は最初から歪んでいる。それい合わせようとすると、必ず人の思考も歪んでしまう。」

坂口恭平『現実脱出論』講談社現代新書、2014年

坂口が「現実」と呼ぶ現実は、虚構と現実の対比で語られるあの現実でも、偶然と事故が起きる生の現実でもなく、大人が若者に言う「現実を見ろ」のあの社会的現実である。あくまでその社会の構成集団が互いにコミュニケーションできるように単純化されたシステムとしての現実があり、それが自然なものでも当然のものでもなく複数レイヤーから成る人工物であるあの現実のことだ。そこで坂口は、いくつかの著作で、「現実」が人為のシステムであることを自覚してその外に出ようと、確かに呼びかけている。
『独立国家のつくりかた』では、そのシステムを作るレイヤーとして貨幣経済と土地制度を相手取る。建築についての門外漢として私は、植物が根こそぎ掘り出された大きな穴にコンクリートを流し込んでいくありきたりな基礎工事が、土地の所有と管理に基づいた制度的な手続きであり、その不要性を「生理的な感覚」から喝破するところなど今でも特に面白く読んだ。
家は動かせるし、お金にも頼らないで暮らせる。ホームレスを手本に、「現実」を中心としないでも暮らせると言い放つ坂口の提案は、「ライフハック」以外の何物でもないように思える。
2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故の発生に端を発して、熊本への非難を呼びかけると同時に、「芸術」の名目で「独立国家建設」を叫ぶ坂口恭平というのは当時、ちょっとした流行作家だった。

第5回で樋口恭介を読んだ時に、子どもの頃の夢に立ち戻ることを考えたが、そこで12歳くらいだった頭が20歳くらいになったのかもしれない。そろそろ学生が終わり、社会に出て働くことが見えてきて、社会の制度に組み込まれようとするときにその制度の暴力的な矛盾にばかり目がいって、なんとかそれを逃れられないかとか考える。坂口恭平はそういう20歳ぐらいの若者にとってこそ魅力的な流行作家だった。
それで、読みながら20歳ごろ坂口恭平を手に取った私は彼が苦手だったことを思い出すのだが、たとえば『現実脱出論』のプロローグにこういう記述がある。

「それはショックでした。彼らはいつだって裏表なく接してくれていたので、僕はそれ以来、あなたのことを信用することができなくなってしまったのです。その日の夜に家出したのは、実はこのことが原因でした」

坂口恭平『現実脱出論』講談社現代新書、2014年

前後を読むと、僕=坂口恭平、あなた=「現実さん」、彼ら=「実在する友人かどうかはわからないが、現実の脱出先を共有する坂口の友人(もしくは擬人化された空想力のようなもの)」というのが想定できる。これを読んでみると、主義というよりもレトリックの問題として、頑なに単一の現実の中で生きていかなければならないと思い込んでいる「大人」を読者=あなたとして、坂口が想定しているのがわかる。
どちらかと言えば、私は子どもとして坂口の案に共感したい立場にあって、そこで二つ問題が立ち上がってうまく本が読めなくなる。
一つは、この「あなた」が「現実さん」つまり、子どもの心を持ち合わせない大人を想定しているということだ。それに、子どものような想像力を持てと呼びかける。つまり坂口に共感すればするほど、著者が読者として想定する「あなた」ではいられなくなる。子どもの心を残した読者も「現実」はしがらみに満ちていることは十分承知している。じゃあ、どうしたらいいの、具体的なことを教えてくれ、そう思わせるのが一つ目の問題であり、それへの回答が二つ目の問題になる。
もうひとつは、坂口が実際的な対処として掲げるものにかかわる。
3、4冊読んでいるに過ぎないが、彼の語りにはどうやら一般論やそれを支えるような引用、数値やデータを用いた客観的指標というのが見当たらない。
それは信頼できる。私は数値で説得力を担保しようとする語りを信用しない。そこは、坂口に共感できる。数値の統計が算出するのは匿名の事例であり、結局それは私個人とは関わりがないからだ。
そういう実用で、つまり「現実を脱出しよう」という話を、ある種の自己啓発論として読むなら、本来は説得力に欠ける。しかし、数字の代わりに坂口がエビデンスとして並べるのはどれも彼の個人的な実体験だ。
結論だけ先に言うと、坂口が「こうすればいい」事例として掲げる実体験というのは、結局再現可能なものではなくあくまで彼個人の身体ありきの体験ではないかということである。

20歳ごろの私は、彼の本のいくつかを手に取り、その「現実」をハックする分析の慧眼を面白く読み、では実際にどういうことをしたらいいか、ということになった時点で坂口が自分の話ばかりするので、興味がなくなって途中で読むのをやめてしまった。そういう感じだった。
彼は必ずしも自分の話ばかりするのではなくて、常識や客観性というのが「現実さん」の論理だからそれを避けて生理的な感覚で語ろうとしていた。今なら彼のその戦略はわかる。
わかるが、客観性のない魅力的な個別の経験なら、私は小説を読む。小説には内容に勝るレトリックがあるから。坂口の新書にはそれがない(この件について、坂口の小説の魅力については別立てで書く必要がある。そういう経緯で私は『現実宿り』を読む)。

具体的に挙げるとこんな感じだ。

「僕がイメージしている態度経済というのは、たとえばこんな感じだ。
ただ人が歩き、話し、ハイタッチする。それで経済がつくられる。なぜなら、そこにはとても心地よい家や町や共同体があるからである。それだからこそ、人々が密接に交易を行うことができる。
人が向こうから歩いてくる。軽快なリズムでそれが気持ちよくて、なんかかっこよくて、風がふっと吹く。力を入れているわけでもなく、適当に、それでいてお金を稼ぐなんて一義的なことではなく、どうしたらこの社会がもっと楽しくなるのかを考えている。人がびっくりするようなとんでもないこと。それが態度経済。
つまり生きること。これすなわち態度経済。」

坂口恭平『独立国家のつくりかた』講談社現代新書、2011年

これを読んで、どう思うだろうか。独特のユーモアとコミュニケーションで対人関係に対処する彼の「現実」への対策はこんな感じなのだ。
もう少しまともに書くと、坂口の実体験が語られるばかりで、自分の問題に照り返してこないことである。あるいは、私の直情的な行動を拒む身体は、具体的に行動せよというその要求を跳ね返す。

きっとこの人は身体の感覚がかなり敏感で生命力に溢れているから、この人と同じ身体のゲームに参加することは私にはきつい、と思いながらそっと本を閉じる私の身体の感覚はシリアスに怠惰だ。
私の身体の怠惰さのシリアス加減については、第9回の話で、みんなで一つの音楽を一つの場所で共有するということをやると私は溺れてしまう。
といって、私も少しも現実が好きなわけではなくて、できたら脱出したいとも思っているが坂口の方法論には腰がひける。そのようにしてひける腰の複数みたいなものを今、考える。

逆に言えば、土地制度も貨幣制度もそういう身体の感覚の弱い人が作った物ではないかと思うのだ。生理的なものごとの判断ができなくなっても通用する、存続する制度によって社会は動いている。もっと言えば、この制度を作ったのは今はもう死人となったかつての老人だ。「私」が死んでも続く制度によって守られた「現実」はある種のゾンビの呪いとして私たちの生活を縛る。

・職場の「かたち」は思考すること

「僕はこのような体験を通じて、大人になったら、この日曜日の朝のような時間に多く触れられるような生活を送りたいと思うようになった」

 日曜日の朝の家族が寝静まった家の中で作業する自由な感覚はその一例に過ぎないが、坂口が提案する想像力は、いずれも空間認識についての類い稀で繊細な知覚体験に満ちている。その延長で、一元化された現実に対抗して個々人の想像力によって多元化した社会を彼は提案するのだが、なんだ、そんなこと当たり前じゃないかとまだ子どもだった20歳頃の私なら思った箇所を、20代後半というか、年齢よりもむしろ一度でも会社員経験をした後は、こういう子どものような思考の重要性に気づくようになる。

とにかく、自分がもう子どもではなくなったと感じるのは、「こんなこともできないのか!」という会社員としての叱責を上司でも年長者でもなく、同年代や年下が発している場所に出会した時だ。「こんなこともできないのか!」なんて、今ならパワハラになるけれど、パワハラとして取り締まらねばならぬほど実はいつも横行している感覚なのではないか。
どうしてこんなことが起きるのかという思考は、会社に勤めていると一人の人間というのが単位化されて、「匿名化された人間一単位」にはいつもこれくらいの仕事はできるだろう、という想定のコミュニケーションがやりとりされ、目の前の仕事を効率よく短時間で終えて成果を上げることのために作業も思考も単純化されることへと思い至る時だ。「こんなこともできない他人」に腹を立てることができるのは、相手の体も自分の体と同じだと思っている身体があるからだ。
また、「こんな仕事ほんとうに必要なんですか」、「こんな商品(サービス)、誰が買うんですか」、「こんなに仕事があるのにどうやって期日までに終えるんですか」とか、その単純化の外に出るための言葉を発すると、叱責されるならまだしもたいていの同僚は、システム外のコマンドを入力されたみたいにバグる。バグってその場で停止する、という話までしてしまうと愚痴みたいになる。
あるいは、良識ある社会人の方からすれば、「なにをあたりまえのことを?」という口かもしれないが、私にはあまりにもこういうコミュニケーションが当たり前ではないので、いちいちここで書いているし、なんならせっかくなのでこれを美学の問題として考えてみたい。
連日の業務で疲れている社員がぐったりと倒れていると、その上司が「こんなこともできないのか!」と叱責している。
「こんなに忙しいのに、自分の体調を優先して倒れているお前は、なんて自分勝手なんだ!」くらい、言うかもしれない。前回、平倉圭の「かたちは思考する」の中で私が考えていたことに照らし合わせるなら、そこには「倒れている人間のかたち」がある。
職場であればおそらくそこはベッドではないので、見つけた人に手を差し伸べてもらえそうな力のない倒れかたをしている。その「かたち」が他人を別の動作へと巻き込む。そこで、上司はその前に前提としてあった仕事の遂行というシステムの指令を優先して、意志の力によって「さっさと仕事に戻れ!」と巻込みに抵抗して、システム内の思考を優先するかもしれない。まさしく会社員の鑑である。
平倉の「かたちは思考する」というのは「かたち」同士の力学の話だったから、「なんでこんな仕事もできないんだ!」と叫ぶパワハラ上司は「なぜなぜ妄想」に囚われたおませな女児と同じ因果律の呪いにかかっているが、社内のシステム内の思考ではその因果律を振りかざすのだとしてもその意見は通らない。実際、美学の中で「諸力のせめぎあい」として立ち上がる複雑なかたち同士の力学の連鎖は、リニアな因果律の議論よりも一層複雑である。
意味のわからない変なやつだと思われても一から、現実の単純さをバグらせるのが芸術の複雑さの使命だとさえ思っている。
そういう観点で考えると、「仕事」とは掃除のようなものかもしれない。所与の力のせめぎ合いによって複雑に散らかった空間のカオスに秩序を与えようとする営み。いならないもの、意味のないものは捨てましょう、というのが仕事場なら、力のせめぎ合いを解析して時間をかけてそのほつれやゆがみを解きほぐしましょうというのが芸術のアトリエである。
そう考える。そのように考えてみる。考えようとしてみる。すると、これはオフィスの話ではなくなる。

・同性カップル地獄のこと

例えばこうして暮らしていて、午前中に掃除と洗濯を終えないといけないとする。その解決策として以下のどれがふさわしいだろう。①すぐに掃除と洗濯を始める。②掃除と洗濯を両方こなせる装置を開発するために働きに出る。③そもそもどちらもそんなに汚れていないので、自分の衛生観念を改めて家事を諦める。
問題を解決するために一番重要なのは、問題の要点がどこにあるのかということだ。それでこの場合の解決すべき問題は、家事を終わらせることにあるのか、家事という役割の悪を排除することにあるのか、同居人との紛争解決にあるのか。
山中瑶子監督の『ナミビアの砂漠』という映画を見てレビューを書いて以来、食べることと他人に役割を押し付けることが紐づいているという考えにしばらく囚われている。
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これはある種の悪漢小説(ピカレスク)で、素行の悪いカッコいい女が主人公なのだが、結局彼女が悪いのは暴力を振るうからでも嘘をつくからでもなく、自分のやりたくないことを他人に押し付けるからではないか、と私は思っている。
家の中に言葉を拒むいくつかのかたちがある。「ご飯食べよう」というカナに、背中を向けてパソコンで作業するハヤシの体のかたち、「これからはお前が全部働け」と詰め寄るカナに力を与える中絶した胎児のエコー写真のかたち、ハヤシにケアを要求する怪我をしたカナが車椅子に乗る時のかたち。それらがすべてカナの我儘を通すためのツールになる。

少しまとめる。
役割を他人に期待して押し付けることは非人間的で悪なのか、と言えば、お互いにそういう役割を演じながら社会を回していきましょうという立場の人からすればそうではない。というか、そうでなければ大人ではない。役割を互いに期待して、その達成を承認して、なんとか頑張って生きていこうというメンバーシップには「寄り添い」の物語が慰めになる。
ただそういうふうにして支えられる社会がもし根本的な問題を抱えているとしたらその社会はそれを解決するための革命的な契機を欠いているのでやがて危機が訪れる。みたいなことを言わなくても、みんな大人になって自分に与えられた役割をこなしましょう、みたいな世の中はじじいばっかり得をしてただただダルい。
ズルをしたり多少の迷惑をかけたりはしても、でも自分の手の届く範囲くらい自由に振舞わせてくれ。あるいは、このままだと変わらない社会の中で自分の生活は一向に改善しないのでそういう「ハック」くらい許してくれというところに「個人主義」的な「解決」の思考がある。

それで『ナミビアの砂漠』は別に子どものように好き勝手振る舞うカナが、成長して改心して、職に就く話でもない。この映画の感想を述べたポッドキャスト番組で、出演者の中田クルミがカナを「カナは自分のことが大好き」「どうせみんなこういう女が好きでしょ」「こんな女SSR(スーパースペシャルレア)」と評している。
彼女の話で一番面白いと思ったのは、この映画に登場しない、カナの反対側にいる女性の話をしていることだ。「このくらいの齢の女の子はなにものかにはなりたいと思ってる」とか「自分にそこまでの自信がない」と、それは承認の話になるのだ。
自分のことが大好きな個人主義のカナの反対側には、承認に飢えた別の存在がいる。それで承認はメンバーシップの問題にもちろん関わる。

極端なことを言えば、自由に暮らすための坂口恭平によるライフハックは「ホームレスになればお金からも家からも自由に暮らせる」ということであった。多くの人がそうしないのは、快適な暮らし、普通の暮らしというステータスがあるからだろう。普通の暮らしをやめれば人生なんか簡単にハックできる。なにかまた当たり前の話になるが、当たり前のことを当たり前だと思っていることの狂気にどうしても興味がある。
自由奔放に振る舞って、中田に「SSR」と評されたカナが、ハヤシの両親に会うのに際して「非常識だと思われたくない」と口にするとき、私は『ナミビアの砂漠』という映画が私は好きだと思う。
「普通」か「特別」か、「メンバーシップ」か「個人主義」か、「承認」か「独善」か、「寄り添い」か「解決」か。そういうのを全部乗り越えて、カナには一貫した主義主張はなく、ぜんぶいいとこ取りをしたいだけなのだ、きっと。良いとか悪いとかを超えて、その悪さが肯定されうる場所が現実にはなくフィクションにだけあるというのに「ハック」の話をする掛け金がある。
元々、書こうと思っていたことからだいぶ外れてしまったが一旦閉じる。


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