『関心領域』短評

1:家具のモチーフ(演出)

暗闇の不快な機械音に続いて現れたファーストカットが、これがすでに面倒な映画であることを予告している。少し長めのこのショットの主役はどうも蔦のしげる川べりにピクニックを営む家族のようだ。これがなんとも頼りない。白人らしき半裸の生っ白い痩躯を晒す少年たちだかと少女たちだか。シートの上にしゃがんだ母親らしき女の腕に抱かれた赤ん坊も合わせると頭の数は9つもある。はっきりと見えない顔たちはどれも区別がつかない。それもわざと区別などつかなくていいように撮られているので、ああこれは面倒だと思った。つまりこれは顔を頼りにせずに人を見ねばならぬ映画なのだ。
顔でないならば何で人を見ればいいのか。先に、結論を言ってしまうと家具が主役の映画なのだ。まず、階段。屋敷の入口らしき場所を塞ぐ白に近い灰色の台形をした階段をカメラが映している。背景としてカメラに映り込んでいるのではない。家の中から子どもが駆け降りていくと、画面の主役はその子どもでも子どもの運動でも決してなく、降りられるこの階段こそが中心で堂々としている。続くショットの中で、庭にしても部屋にしても廊下にしてもそうなのだ。そこを通る人間ではなく、人間に通られる容器としての建築の方が映画の主役らしい。
これが乗物になると人間との差別化が一層明確になる。ボートの扱いはさらに興味深い。カメラはその構造の真ん中に空いた窪みに焦点を合わせ、道具は空間にすっぽり入るはずの人間の身体を想像させる。荷車にしても自動車にしても、おもちゃの車にしてもハンドルや運転席が人間の身体を想像させることで、道具としての存在感を画面いっぱいに発揮する。さらにボートがとりわけ興味深いものに転じるのは、いかにもその大きさに似つかわしくない赤ん坊を自身のくぼみにあてはめてみせるときだ。この演出は人間の身体というものへの遊びを感じさせる。それで人間ではなく、まるでそのボートこそが自分に似つかわしくないサイズの人間の身体を通じて巫山戯ているようにさえ見えるのだ。
極め付けは口紅や煙草といった小道具。おそらく本作に初めて登場するクロースアップ(らしき)ショットは、自室の鏡台でメイクをする夫人のそれなのだが、一瞬やっと顔がはっきり現れたかと思ったら、それは化粧品の広告のように彼女の右手に握られた口紅が道具として主役になっているだけなのだ。まるで化粧品の広告のように、女優の顔は品物の脇役となる。
監視カメラや、そこに存在しない幽霊の視点など、物語への効率化に抗ってアート映画が人間以外の者の視点を映画のレトリックとして開発されかなり久しいけれど、まるでインテリア広告のようにオブジェを撮り続けることで人間を脇役にした映画というのは珍しいのではないか。こうした道具の脇役としての人間という構図はどこかフェルメールの風俗画を連想させるものの、広告に由来するらしき芸術性を排除した機能性はもっとさっぱりと潔い。特に興味深いのは、例えば少女が玄関に捨て置かれたおよそ自分のものとは思えない男者の大きなブーツを運ぶときや、先ほどのボートに乗せられる赤ん坊の例や、夫人がぶかぶかの獣の毛皮を身にあてがって鏡に映る自分を見比べるとき。そのオブジェとオブジェを身につけようとする当座の人間の不均衡の際立ち。道具が想像させる人間の体の大きさと、そこに添えられた実際の人間の体の大きさの不均衡はちょっとしためまいを作り出し、ミニマルなダンスのような運動を繰り広げ、その可笑しさに思わずほくそ笑んでしまう。
このような主題は、家の夫人の母親らしき女が訪ねてきて「あそこはユダヤ思想家か革命思想家の家だった。彼女の家のカーテンが欲しかったけれど、向かいの家の人が持って行った」という信じられないほど残虐なセリフに端的に示されている。本作の主役はある時点までは、人ではない。この邸宅を彩るインテリアの数々なのだ。そして映画の中盤までに氾濫したオブジェは夏を迎え、階段隅で恋愛が企まれ、庭に植物が溢れかえり、家主が馬に人生相談をせんとばかりに正面切って、鞍よりも顔のほうに向かうとき生身の者たちの逆襲が始まる。

2:メロドラマ(脚本)

このままとぼけ続けるのもここが限界だろう。宣伝なり、これがヨーロッパやアメリカで獲得した賞の経緯からして、この映画が1943年におけるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のすぐ隣に建てられた邸宅の再現を題材としていること、ここで描かれているのが収容所のルドルフ・ヘス所長の家族であることをまったく知らないまま見続けているというわけではもちろんない。しかし、一方でそれはあくまで映画の外からやってくる情報でしかない。劇の背景について映画が直接もたらす情報は、ナチスの親衛隊の制服や、うっすらと聞こえてくる工場のような機械の音、そこで使われる焼却炉の図面、屋敷から抜け出してくる使用人の少女が話すヘブライ語らしき言葉、叫び声のようなもの、ルドルフ・ヘスという名前、夜中に窓の外を眺める老人、窓に反射する真っ赤な炎、煙がわずかにこれが1943年のアウシュヴィッツの物語であるかもしれないことを仄めかす程度に過ぎないのだ。暗視カメラに捉えられたユダヤ人の少女が取り出す人体の破片にも似た小さな物体が一体何なのか、庭で肥料に替えられれる灰らしきものがいったいどこから持ち込まれたのか、ヘス夫人の毛皮のコート裏に何が挟まっていたのか。そういった不穏な細部に映画が親切な説明を与えることは決してない。ただ仄めかすだけにとどまり続ける。
炎や煙といえば、これは家具と比較して、驚くほど自然現象に関心のない映画で、その象徴が水だ。本作に川は三度、役割を担って登場する。一度目は冒頭のピクニックで水辺で遊ぶ子どもらが散らす水飛沫へのカメラの無関心さにはぎょっとする。ただそれは人間の身体を弱々しく映すための鏡としてそこにある。二度目は、床のようにのっぺらな平面となった水面に子どもたちがあのボートで漕ぎ出して再び遊びを試みるが、父親ルドルフが降り出した雨に気づいて叫び、豪雨の中で撤退を余儀なくされる。
最後は、川面に向かって桟橋に立つヘス夫妻。上司から転勤を言い渡されたことを告白したルドルフに、妻がアウシュヴィッツに住み続けることを訴えて抗議する。こうして水は、自然は人工物に囲まれて暮らすこの家族にとって無視すべき災厄の奏でるノイズとなる。彼女は、ここでの家族との幸せな暮らしをどう思っているのか夫に詰問し、夫一人で転勤になるように上司に頼めと命令し、戦争が終わったら農業を営む長閑な暮らしを夢見る。まるで戦後の社宅住宅で繰り広げられるのどかな痴話喧嘩の一コマ。ここがアウシュヴィッツ強制収容所であることをケロッと忘れて、当人たちにとってだけ深刻な、小市民的なメロドラマが繰り広げられると、とぼけた調子でやっと本作の「物語」らしきものが展開され始める。

3:不親切に途切れる(結末)

それから、映画はどのような物語を辿るのか。どのようなモチーフを描くのか。期待し始めたところで、ほとんど中断のように唐突に終わる。カメラは急にあの邸宅を画面に中心に据えることをやめて、ハンガリーで企まれている作戦に関する軍の高官たちの会議と、彼らのパーティーを描き始める。建物を映すカメラの位置は前半のそれとよく似ているが、決定的に異なる。画面の中に溢れかえる人、会議の席の中心で話す高官、いずれも普通の映画のように人間を中心に撮り始めてしまう。通常の映画ならおしゃべりや、画面内への人間の充満は演出を盛り上げる要素であるはずなのに、演出はシャンデリアや、叩かれる机へのわずかな目配せを除いて家具への執着を失い、唐突に普通の映画になり始める。しかし、普通の映画として物語が展開されることもなく、上官がルドルフに異動の撤回を味気なく言い渡すとあのメロドラマも展開する前に中断されてしまう。ああ面倒だ。面倒なことをやる変な映画だ。しかしそれならそれで面白いかもしれない。その面倒に付き合ってみようと思った矢先、始めたほうが先に途中でこの奇しいゲームを投げ出してしまうのだ。それで、いよいよ最後のシークエンスが予感される。
階段の踊り場で嘔吐を催すルドルフ・ヘスの主観でフラッシュバックを起こすようにして、現代の博物館らしき場所と、そこに残された焼却炉のような真っ黒な部屋のシークエンスが何の説明もなく挿入される。あれはいったいなんだったのか。決して映画は、その事情を映画内で詳にしないが(そういえば中盤にも画面が真っ赤に染まって無音になるところが1箇所ある。これにも説明はない)、ああ、きっとこうしてこの映画は唐突に終わるのだろうと思いそうになる手前で、スタッフのテロップが画面に浮き上がる。
物語ということについて鑑みるのであれば、このような映画から得られる一つの教訓は以下のようなものだ。すなわちこれでなにかヘス一家の暮らしの平凡さに共感して現代人の暮らしの背景を邪推し、「私たちもまたもしかして知らず知らずのうちに誰かを傷つけているのではないか」などという気づきを得ることは決してないということである。もし、そのような気づきを得たような気分になるとしたら、それは客があらかじめ知っていてそう期待していた知識でしかないのだ。つまり、この映画がアウシュヴィッツ強制収容所における知られざる真実を描いており、それによって現代の観客には歴史上の事実について予期せぬ気づきが与えられることを期待されていたかもしれないのだとしても、そのような気づきを映画が直接描くことは決してなく、不親切に仄めかされたに過ぎずそれは、映画の外にある補足知識を通じてそのような気づきがあったかもしれないような「感じ」にしかあくまでならないような語りの拙さでこの映画はできているのだ。
そうではなくて、もしこの作品がとりやめたドラマがそれ相応の結末を得たならば、ありうる一つの形として観客はヘス夫人の引っ越しに伴う家庭崩壊の不安がなにかのかたちで登場人物たちの人生を動かしたことが描かれたならば、観客はヘス夫人の苦難を意地の悪い喜劇ではなくささやかな教訓として体験できただろう。そうであれば、決して実際に出来上がった映画のこのようなかたちではなく、ありえたかもしれないヘス夫人のドラマのほうにこそ、その夫人に共感できる感性の遥か彼方にこそ、実はあの暗視カメラに映るユダヤ人の少女への共鳴があるべきなのではないかと思うのだ。というようなことを、映画を見終わって言いたくなってしまったが、それもまた私のようなまったく愚かな日本人の無知に由来する邪推に過ぎない。どうしてもやはり、映画にはそのようなことも、そのようでないことも少しも描かれていないのだから、あの映画の最後に登場するプラスチックのカードを首からさげたいかにも現代風の女性二人は一体何者だったのか、さっぱり見当もつかないと途方に暮れながら、なにもわからなかったと混乱のままに劇場を去るより他なかった。

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