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子どもの教育を考える時、高齢者の事も考えるのは当たり前じゃないか

 今、わたしは限界集落に子どもたちの小さな学び舎が作れないか?と奮闘している。
同時にたった一人その村に住んでいる93歳のちづ子おばあちゃんの事も村の存続も考えている。
子どもの教育に興味があり、活動している人は少なくないと思うけれど、高齢者や村の事を同時に行っている人は多くはないと思う。
そういう私もたまたまちづ子おばあちゃんや村と繋がったから考えているだけで、そうでなければそこまでも思わなかっただろうと思う。

だから、少し書こうと思う。

93歳のちづ子おばあちゃんは何度も同じことを聞きます。
『次はいつ来るんやった?』
『○○日やよ。』
『ほうか、ほうか・・・。』

で、しばらくしてまた聞く。
『次はいつ来るんや?』
『○○日やよ。』
『ほうか、ほうか・・・。』

最低3度は繰り返される。
でも、当たり前やと思うので、
何度でも答えてあげる。

私もいつかは記憶があいまいになって
同じことを繰り返して聞くようになるだろうから。

人は、小さな子が何度も
『なんで?』
『なんで?』

『これ何?』
『これ何?』

と尋ねることを微笑ましいことと捉え、
笑顔で何度も答えてあげる。

なのに、おばあちゃんが何度も同じことを尋ねたら
嫌そうにする。
なぜなのか私にはわからない。
何度でも答えてあげれば良いし、
人と話すことでお互いの脳は活性化するから。

ちづ子おばあちゃんは
私が村を離れて大阪に帰る時
最近『寂しい。』と言う様になった。
当たり前だと思う。
村の見守りをちづ子おばあちゃんはけなげに一人行っている。
もちろん、家族の人もちづ子おばあちゃんの事をきづかって村を訪れるけれど、夜には帰ってしまうから。
村を下りて、町に行っても
ちづ子おばあちゃんはすることが無くって退屈で、
ぼーっとテレビを見ているのだという。
それなら、空気がきれいで静かで村を訪れた人と言葉を交わし
暇なときな大きな音を出して、テレビを見ている方が幸せなのだろう。

ずっと生活していた住み慣れた処で、
自分の人生を全うしたい。
病院ではなく。
そう誰しも思うのではないだろうか?
それなら、子どもたちの学びを考えた時、
子どもたちが、自分たちにいろんなものを残してくれた人たちを敬い、
気遣い、見守ることはとても大切なことだと教えてあげなければならない。
わたしたち大人がそのことを身をもって示してあげなけらばならないのだ。

高齢者になればなるほど、
子どもに戻っていく。
だから、高齢者の子どもを
子どもたちと一緒に考えるのは
『子どもの教育』を考えた時には
当たり前なんじゃないかと最近つくづくそう思うのだ。



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