主に男性の集団ヒステリーメモ 與那覇潤氏と辻田真佐憲氏のヒステリーの続き

與那覇潤氏と辻田真佐憲氏らの、共ぐるいとしか言いようがない妄動がいまも続いている。

感想を検索してみたが、與那覇潤氏への賛同が驚くほど少ない。これだけ否定的感想ばかり見かけるシリーズは久々に見た。その⑥。

『北村紗衣氏の「指摘」に応える:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑥』

https://agora-web.jp/archives/2053976.html

感想を検索する限り、当時を知る多くの人からなぜこうもウソばかり…と呆れられているか、せいぜい冷笑されているが、意識的に嘘をついているのだろうか。自覚がないとしたら大丈夫だろうか。

以下「」を見よ。史料批判という歴史の素養がわずかでもある者なら切腹して死にかねんわ。

「北村氏と呉座氏の意見が食い違い、とくに呉座氏の側が鍵アカウントの内側で応酬したことを不服とする北村氏が、呉座氏を批判しえる発言がないかと広く募集した」

単品で読んでもつじつまが合わない與那覇氏の文章をわざわざ読んで引用してくれた人に敬意を表したい。

アゴラも後世まで確実に恥をかくであろう與那覇氏の裸踊りのような記事を晒し者にしてどうしたいんだろうか。

ちなみにシリーズのどれも、アゴラのランキングにすら全然出ていない。めいろま氏の移民対策論記事などに大きく水を開けられている。

本当に冗談抜きで単品で読んでも比喩になっていない比喩や辻褄が合わない描写の連続だから、固定ファンすらついていないとみた。

以下ただの雑感。

酷評の尻馬に乗るようでアレですが相変わらず捏造しかしていない残念な男らしさでしたね


古今東西、男社会はほぼ男性中心の主観と感覚論とお気持ちで動いてきた。

もともと老若男女によって構成され主に女性が守っている実社会の中で、多重に守られた狭い身分秩序として男社会は存在してきた。

そして世の中の民主化後も「偉い人/男は人間的で弱いけど庶民/女は動物的で強いから。」と母から妻までの全ての女を踏み台にしてきた産物が男社会で、実力主義や合理性とはほど遠い。

もしスポーツ好きに男性が多いとすれば、男社会には貴重な実力勝負をみて鬱憤を晴らしたいのも一因じゃないか?とすら筆者は思う。

そして身分制度では古代から現代まで、支配を正当化するために「地位の高い人は低い人より正しい。男性は女性より正しい。上による支配が愚かな下を守っている。」とするオカルティックな前提での制度設計や運用が続いてきた。

その不自然な差を実現するために機会を奪う措置が行われてきたし、女性についてはいまでも運用的に続いている。

民主化後も女性との話し合いを困難し封じるためにこそ、今のようなジェンダーギャップを作り出し、維持してきたのだし。

むろん、近代初期の欧米のように男性間だけでも平等に近づくほど多くの才能が世に出て社会は強くなるし、逆にいえば差別に依存するほど社会は弱るが差別対象のせいにすれば済むので、合理性が育まれにくい


そんなこんなで男社会では、男たるものは女のような小理屈など言わずに、仲間の感覚や感情にただ共感し「あいつがそういうならそうだろう」と鵜呑みにすることが期待されがちだ。

呉座勇一氏の仲良しサークルはその典型だったと見える。

一言で言えば集団ヒステリーで、それだけなら女性にも多々あるはずだが、違いは男性には自らを理性的と呼ぶニセ科学や、自らの支配が女性を守っているとする身分制的な集団幻想があり、女性差別にはけ口を探す文化が定着している点だ。まあ、前世紀後半には科学的な検証のおかげでボロが出ちゃってたが。

今回ちょっとおもしろいのが辻田真佐憲氏の逃げ腰で、ようやく状況のまずさに感づいたかもしれない。

本件では最近までこの辻田真佐憲氏などはまさにヒステリー状態で、筆者などは彼の発言を見るにつけて戦前から今まで何かにつけて世界で言われる日本人論の「日本の男にはタマがない。日本では女にしかタマがないんだ。いつも奴らは女の影に逃げ隠れるさ。」を改めて思い出すほど素晴らしい現実逃避発言を連発してらしたのだが、さて彼は北村氏や嶋氏らに頭を下げることができるだろうか。

彼らはヒステリーを起こしているので、自分の感情を認識できない。感情が未熟なままだから感情自体を蔑む。そして男性という20世紀の特権階級である自覚がないので、逆らう女その他を捏造や「感情的」という古いニセ科学のレッテルで袋叩きにしようとする。

繰り返すが、彼らのような集団ヒステリーはどうせ差別に依存しているから、彼らから見た社会は一見うまく回るし、問題点を自覚しにくい。歴史の素養がない旧式の人がたいてい持つ歴史的な盲点を、辻田真佐憲氏や與那覇潤氏は克服できるだろうか。

どっとはらい。