自分のことにかまけていたら

忘れるのは、人間の尊い才能のひとつだと思う。

この数ヶ月、いや半年くらい自分のことばかり考えていたら、二年前に子どもが診断を受けたことをすっかり忘れていた。

私が気になることを学び、気になる服を買い、行きたいところに行き、もう要らないと思った物を捨て、面白そうと思った本をオンラインで購入し、もうだめだと思ったらしばらく家を空けた。

「そういえば、先生にあんなこと言われたんだっけ...」

先週子どもの寝顔を見ていて、はっとした。

当時は診断を受けたことがあまりにショックだったのか、「可能性が高いと言われた。どうしよう」と日記に書いている。脳内で自分の都合のいいように変換したらしい。一年後「診断が出るのは何歳くらいですか」と先生に尋ねると、「あれ(一年前)が診断です」とあっさり答えが返ってきた。そのやりとりも日記に残っている。

通院先が変わって主治医も変わり、この春にもう一度「診断はつくのか」と尋ねてみた。先生の方針なのか、はっきりとは明言なさらなかった。


私は診断があっさりついたことにも、ついていないことにも、そのどちらにも感謝している。だって変わらないから。私の子どもへの態度は変わらない。

診断を受けたことを覚えていたところで、私の日常は何ひとつ変わらない。

台所に立つ時間が短くなるわけでも、通院の付き添いがなくなるわけでも、お風呂で「お歌の時間」が省かれるわけでもない。なかなか寝落ちしないのも、引き戸をそっとずらした音で目を覚ますのも、診断の有無にかかわらずほぼ毎晩格闘している。初めての場所では静かに周りを観察するのも、赤ん坊のころから変わっていない。お友達がふだんと違う髪型をしていれば私に報告があり、私のペディキュアの色が変われば真っ先に気づく。

「悩んだ時間は決して無駄にはならない」ーいや、無駄だった。打ちのめされて溺れた時間は昇華して糧になってほしい。でないと悩んだ甲斐がない。そう思うのが普通かもしれぬ。私もかつてはそう思っていた。

でも、躓いた時間を経て思う。あんなのないほうがいいに決まっている。

前を向け。上を見ろ。俯くな。下を見るな。顔を上げろ。


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