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きっと、娯楽が消えていく

半年後、いや、それは数年後になってしまうかもしれないけれど、コロナの時期を振り返ったときに、「あの自粛とSTAY HOMEの時期に、どんな音楽が流れていたんだっけ?」と考えたときに、思い出せる曲って、何かあるんだろうか? 

もちろん、個人個人ではあるだろう。特にずっとレコードやCDを買ってはいるものの、なかなかしっかりと聴けなかった人たちは、この自宅での期間で、「うわぁ、こんなのあったんだー」と楽しんだり、久々にレコード・プレイヤーをつなぎ直して、思い出のアナログを聴き直したりしているかもしれない。いや、今や、サブスクリプションで、家仕事をしながら、音楽を流しっぱなしにしていることも少なくないかも。だから、個人的な記憶とリンクする、そんな曲はあるに決まってる。でも、今、流行歌っていうのが何か街に流れてるのだろうか? いや、街に流れてても誰も聞かないよなぁ。自粛されてる? いやいや、東日本大震災の際は大きなCDプレス工場が地震で壊れてしまって、物理的にCDをプレスすることができなかった、というのもあるのだけれど、今回はプレス工場はちゃんと仕事としては行なわれ、そしてリリースも予定通りされている。じゃ、今、チャートの1位って何かご存知? 実は、5/21現在のオリコン週間トップはこの曲らしい。

millennium parade × ghost in the shell、ってグループらしい。なんだ、そりゃ(笑)。どうも、King Gnuの常田大希の率いるクリエイティヴ・ユニット(なんだ、そりゃ②)で、攻殻機動隊の新しいバージョンのテーマになってるそうな。これが、まぁ、よくできた曲だなぁ、と悪い印象もいい印象も特になく、でもこれがオリコンチャート1位ってなんなの! と思いつつ。関係ないけれど、King Gnuの常田さんって、長野県の伊那市出身なんだね。今頃、伊那の街は、もうずっとこれがかかってるのかしらん。あの「かんてんぱぱガーデン」でも、「いなっせ商店街」でも、こんなギャンギャンとしたサウンドが奏でられてるわけ? 赤石商店の埋ちゃん夫妻、どうなの? 伊那に今月についに移住した円盤(否・黒猫)田口くん、どうなの? 今、連続で2回聴いて、3回目くらいには、「んーーーーー、もう、いいっす!」と思わず音を止めちゃったけれど、こういうヒットチューンって何回も聴けるもんじゃなかったっけ?

ちなみに、アルバムチャートでは、この人。藤井風って人。息子に名前の読み方を教えてもらったぞ。岡山の人で、えらく洒落て洗練されたシティポップ風のオケに岡山弁を載せていくって、なんだ、そりゃ③? 時代がもう分からない。岡山の里庄町って、福山の手前くらいの小さな街出身のSSWのファースト・アルバム……いや、それはいい話やないか!

これらの曲が、「コロナの時間」で流れている流行歌……のわけはなく。そんな曲じゃないよね、これは(笑)。いや、調べて気づいたまさか、だったんだけれど。きっと、嵐の曲とか乃木坂の曲とかが流れてるのかなーって思ってたんだけれど、どうも全然違うんだね。それ以前に、

「どこにも音楽が流れていない」

数年前から、自分は、音楽って贅沢品のように感じてた。ある時期から心が止まっていたこともあり、音楽がまったく耳に心に入ってこない時期が続いていて、そんな中で「音楽」とか「映画」とか、「本」でもいいんだけれど、そんな文化を愉しむのって、心に余裕というか、隙間がないと愉しむことができないってことを知った。心の中が不安や悲しみのようなものでいっぱいのとき、そんな「文化的なもの」が入って来ないということを理解したのだった。もちろん、音楽ライターをやっていたり、インディレーベルをやっていたりという経緯で、周りには音楽関係の人間が多いから、知り合いの動きや音は耳にしていたけれど、世の中に響いている音にはまったく興味や気持ちが向くことはなかった。もちろん、いろいろあって、個人としては、1年半ほど前から、ようやく聴こえてきたんだけれど。

で、いろいろと考えた。音楽には、「娯楽で樂しむ音楽」と「心が必要だから樂しめる音楽」があるんじゃないか、と。「心が必要だから樂しめる音楽」に関しては、説明するのにちょっと多くの言葉が必要だから、ここでは割愛。で、もうひとつの方。自分はずっと、生まれてこの方、音楽を「娯楽」で楽しんではいなかったんだろうな、とも思った。もちろん、ポップスだって大好きだ。トップ40ヒットがリアルに素晴らしかった時期も知ってるし、歌謡曲の魅力だって知っている(つもりだ)。だけど、音楽をずっと「娯楽」として捉えることができなかったんだ。僕が興味を持っていたのは、それを奏でている「人間」の在り方とか、その時代の中で存在する「意味」、もしくは「大衆が夢中になる気持」のようなもので、純粋に娯楽としては楽しんでいなかったんだよ、ポップ・ミュージックを。ごめんね、ポップス。チンケな心で。

でも、多くの人は、ポップ・ミュージックを「娯楽」(時に、それはエンターティンメントと読み替えてもいい)として愛でることができる。素晴らしいことだ。限りある時間や経済の余裕の中で、音楽に夢中になり、そして消費し、飽きて、次の愛でるべきアイテムやアーティストを探す。時々、振り返ってそれを懐かしく想い出し、またそっと記憶の箱の中に戻す。いや、それは悪いことじゃない。それがポップ・ミュージックというものだ。それでいい。それがいい。

でも、このコロナの時期、世の中に、ポップ・ミュージックがまったくもって流れていない、という事実。それは、経済的にも余裕がなかったり、先の不安でいっぱいのときには、ご飯を食べなくちゃいけない、住む場所を確保しなくちゃいけない、ってことを頭と行動はまず選ぶ。そして、そんな時に、人はまず第一に「娯楽」から捨てるのだろう。当たり前だ。心や経済に余裕があるからこそ、「娯楽」を堪能することができるのだから。

それは、音楽だけじゃない。本だってそうだ。スタジオ階下のホホホ座山下くんに訊くと、どうも「物語」はそんなに売れず、売れるのは「哲学書」だったり「啓蒙書」ばかりだったりするらしい。ホホホ座は特異な本屋なんで一般論では語れないけれど、大型書店でも、たぶん『7つの〇〇』みたいな、PHPだのサンマークだのから出てるような人生セミナー本みたいなのが売れてるんだろうな、と想像がつく。映画だって、心の中では「映画館を守れ!」って気持ちはすごくあるけれど、それでもNetflixで届けられる、この先一生かかっても見きれないような(かつめっちゃ面白い)コンテンツが、毎月1,000円程度という映画1本以下の価格で樂しめる現在、これにSTAY HOMEで馴染んでしまった人たちが、この先、映画館に行くだろうか? と、思ってしまったのだった。それは、一般的な人が、「物語を堪能」したり「映画館で映画を観」たり、「ライブハウスで音楽を聞く」ことが、とてつもない「贅沢品」であり、人によってはなくてもいい「娯楽」だということに、このコロナ禍の中で、多くの人が気づいてしまったから。

先に言った通り、「娯楽」以外の意味が音楽にはある。食べ物よりも、音楽の方が重要、と感じる人もいることだろう。自分のように「音楽は娯楽じゃない」と思ってる人もいるだろう。それは素晴らしいことだと思う。でも、そんな風に音楽を樂しめる人は、相対的に考えて、ごくわずかなんじゃないかな、と。だから、音楽を聴く人はいなくなったりはしない。それ以前に、誰ひとり音楽を聴かなくとも、音楽家は音楽を作り続けるだろう。でも、「娯楽」として楽しんでいた人たちは、ごっそりと、このコロナの時代を経ていく中で、音楽を手放していくのではないか、とぼんやりと、いや、実はかなり明確にそうじゃないか、と思っています。

ポップ・ミュージックの魅力として、「時代」が偶然の必然とも言える形で(チャーンス・オペレーーーーショーーン!)、ポップ・ミュージックを呼んで来ることがある。美空ひばりの「リンゴの唄」でも坂本九の「上を向いて歩こう」でも、ピート・シーガーの「We shall ovecome」でもディランの「The Times They Are a-Changin'」でも、なんでもいいけれど、時代を切り取る音楽とでも云うべきものがあるはず。しかし、今、何十年に一度のクライシス、大きな変化の「時代」なのに、ここに寄り添う音楽が何も生まれていない、ということに、ポップ・ミュージックの限界を今、感じている。【この項、追記:5/21 9:41am】 

たかだか100年ちょい前の18世紀の日本で、音楽がすべての人の娯楽だったか、といえば違う。もちろん、祭りだ、神事だ、労働歌だ、で音楽は楽しまれていたのは知ってる。でも、「娯楽」として楽しめていたのは、一部の人間だったんじゃないか? そう考えると、元の時代に戻っていく、っていうだけで、決して特別なことではないように思っています。そして、再び、時間や経済が余裕ができたとしても、多くの人にとって、一度萎んでしまった「文化的なものを樂しむ気持ち」は、なかなか元にはもどらない。

不安な時代には、エンターティンメントとしての音楽〜ポップ・ミュージックは鳴らないのだ、ということをはじめて知った。そして、それは音楽に限ったことじゃない。

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