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日常のない今に、日常食にこだわる、ということ(山食音のなぎ曜日、リスタート!)

今から2年ほど前、「Spectator」という雑誌で、なぜか「なぎ食堂」を大きく紹介してもらった、ことを食堂愛好家(って行ってもいいのかな?)のエンテツさんこと遠藤哲夫さんのツィッターで、ふと思い出した。

エンテツさんとは、一度だけ、円盤でトーク・イベントをさせてもらったことがある。とても面白い、というか、抜けのいい方で、食べること、飲むこと、そしてその場所がとにかく好きでありながら、場所や人にベッタリとすることなく、自分のペースで愉しむ方、と勝手に思ってる。とにかく洒脱。エンテツさんは、この雑誌の中で、食堂について、歴史をふまえたしっかりとしたコラムを書かれています。これもかーなり、面白い。人がいてこそ言葉が生まれてくる、そんな文章です。

で、エンテツさんのTwitter経由で、この本を編集された赤田祐一さんの言葉、「ここにとりあげたような意識の食堂が少しずつ増えていき、それがスタンダードになれば、世の中も少しずつ、不寛容なものから寛容なものへと変わっていくのではないでしょうか」っていうのを読み直して、少しため息を吐いた。自分は、果たして、今、あのころのような気持ちで料理を作ることができるんだろうか、と。

赤田さんは、昔からその仕事(「Quick Japan」の創刊や「あかまつ」、「20世紀エディトリアル・オデッセイ」等)を読んでずっと尊敬していて、そしてこの特集でガッツリ出会って、たぶん5回くらい直接会いにきて取材してくれた。今まで自分の店の取材で、そこまでちゃんと考え関わってくれた方はいないし、自分もこの先取材をする、ということはこういうことなんだ、と新たに思い直した次第。で、この「スペクテイター/食堂特集号」の中に氏が思いを込めたのは、「日常食」とはなんだろう、ってことだったと、自分は勝手に思っています。

なぎ食堂は、ヴィーガンの食堂だけれど、日常食にずっとこだわり続けた店だと自負しています。「日常食とはなんぞや?」と。毎日食べること、そして、毎日、食べても飽きない、という以前に、毎日食べたいなぁ、と思わせるようなものが自分はずっと作りたくて、なぎ食堂というヴィーガン食堂を始めました。もちろん、この本で話していますが、「外に食べに行く」というハレとケの「ハレ」な気持ちは持っていてほしいと思う。でも、それでも、毎日食べても満足できる、というか、空気のようなものになりたいとずっと思ってやってきました。それが上手くできたかどうかはわかりませんが、2、3年で多くの店ができては潰れする渋谷において、13年以上ベジタリアンの店として続けることができたのだと思っています。もちろん、渋谷の店は、現在休止中(7月1日のリオープンを目指しながら、ちょっとアイディアを詰め直していますが、それに関しては、また追って!)ですが、京都で週に2回スタートさせた「山食音のなぎ曜日」に関しては、自分が実際に料理を作ってお客様に対応することもあり、いろいろ考えることも多いのです。

今、京都、いや日本中……否、世界中において、これまでの日常っていうものがなくなって、また新たな世界や時代を構築しなくちゃならないとき、「日常」っていうものをどう捉えるか、がとても難しくなっているのです。こんなパラダイム・シフトが起こっている瞬間に、なぁんもなかったかのような顔をして「これまでも有難うございました。そして明日からもよろしくお願いします!」ってことをやってもいいのか、と。そして、自分がこれまで作ってきたものは「日常食」だったわけで、その日常が変わってしまった今、作るものを変えていかなければならないんじゃないか、と。うーん、考え過ぎなのかな? どうなのかな?

週に2回しかやらない店が「日常」なのか、もう少し特別に気張った料理を考えた方がいいんじゃないか、とか。もちろん、も少し値段が張ったゴージャスなベジ料理を作るっていうこともできないわけじゃない。でも、そうじゃなくって、「新たな日常食」を考えることをしてみたいな、と思っているのです。

元々、自分がヴィーガンの店を始めた理由はいろいろとあるけれど、その一番大きな理由は、「アニマルライツ」でした。自分の大好きな犬と暮らして、それでも動物を食べるのはどうか、という考えがベジを志向する根底にありました。そして、今、自宅では肉を口にすることも諸事情で増えてはいるものの、もちろんその気持は変わってはいません。ただ、店を始めて数年経ったころ、それ以上に感じ始めていたのは、環境や社会問題を考える際に、あまりにエネルギー効率の悪い「肉食(特に養牛)」の率を少しでも低減させていくため(この話も将来的にちゃんと語らねばと思っています)、自分ができる一歩目、としてこのような店、もしくは考えを伝えるための作業をやろうとぼんやりと考えていました。そして、今、新型コロナの波の真っ只中で考えるのは、もはや、それは「ぼんやりと」っていうレベルじゃなくなっちゃったよなぁ、ってことなのです。このまま、ぼんやりしていたら、世界が終わっちゃうんだよなぁ、ってこと。あれ、自分は考え過ぎなのかな? 考え過ぎだったらそれでいいんだけれど、もうそんな悠長なことは言ってられない次元に世の中が入っていると自分は思っています。

そんな中、料理を作ること、ご飯を提供することを考えるときに、新型コロナ以降、「外食をする」ってこと自体、とてつもなく贅沢なものになってしまったんじゃないでしょうか? 経済的なことだけではなくって、楽しみのために食事をする、っていう感覚を少し見直さなくちゃならないんじゃないか、と。「日常食としてのベジ」を標榜して、ずっとやってきた自分たちの考え方を更新させて、その先の何かを見つけなければならないんじゃないか。ただ、それは「草の根っこを齧る」ようなものでもないだろうし、「オーガニック食材を高い金で手に入れる」ことでもない、そういうものとは違う「社会問題と対峙しながら、飲食を提供する場所や方法」があるように感じています。

ただ、まだ自分はそれが何なのか、ちゃんと見つけられていない状況です。だから、リスタートさせることに不安を感じつつ、それでも実際に動き始めたら見えるものがあるんじゃないか、と思いながら、6月9日(火)から、山食音での「山食音のなぎ曜日」を再開させます。大きな違いはたぶんないでしょう。楽しく料理を作って、少しでも美味しいと喜んでもらえれば幸いです。具体的に動きながら、走りながら、気持ちの奥底でそれを考えていきたいと思います。考えてもわかんない、見つけられないときは、とりあえず動いてみるのが一番だってことは、よくよく知ってる。で、探し求めてみます、「新たな日常食」とはなんだろう、ということを。

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