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京都嵯峨野紀行②

角倉了以の墓道を上っていくと、法然上人廟があり

浄土宗開祖 法然さん

その右側にお墓が建ち並ぶ中に看板を発見!
角倉了以の墓か??
と思ったら
吉田光由の墓でした。

吉田光由….??
塵劫記!聞いたことある!

『塵劫記』っの著者らしいですが、
何の本だったっけ?と思ったら、江戸時代の算術書のベストセラーでした!
角倉了以の一族だそうで、多才な家系ですね…
角倉了以も元々は吉田姓で、
近江源氏の佐々木氏の分家だそうで、東近江市豊郷町が本拠地だったようです。
(Wikipedia調べ)

「んで、角倉了以の墓はどこなん??」

と思い、奥の方に歩いていくとありました!

角倉了以の墓…数多過ぎない??どれ?
変わった形のお墓だなぁ

角倉了以は私財を投じて京都の高瀬川の開削をした京都の豪商として知ってました。
高瀬川は伏見まで続いてて、荷物を運搬するための運河として運用されました。
京都来たら一度は見たことありますよね。
高瀬川。

右から鴨川、みそそぎ川、先斗町を挟んで西側に高瀬川があります。

 高瀬川 みそそぎ川 鴨川

琵琶湖疏水のこと調べてる時に、角倉了以知ったんですよねぇ。
琵琶湖疏水の水が流れてますからね。

よくよく調べたら、保津川、富士川、天竜川、庄内川の開削もしてて、すごい人やん。
日銀京都支店(京都文化博物館)に本邸があり、がんこ高瀬川店に別邸があったそうです。

がんこ高瀬川店の中に琵琶湖疏水も通ってるようなので、一度行ってみたいんですよねぇ〜

それにしても、角倉了以は嵯峨生まれだったのかー。知らなかった。

法然上人廟の左側へ行くと
藤原定家が小倉百人一首の選定したと伝わる
『時雨亭跡』
があり、そこからは京都市内が一望できました。いい場所や。

時雨亭(藤原定家)


京都タワーも見える


その後、墓道を戻ってきて、
ついに見つけた。
『小倉餡発祥の地』の碑

小倉餡発祥の地
空海さんがキッカケなのか…

空海が唐から持ち帰った小豆の種を栽培して、砂糖と一緒に煮詰めたものが最初で、それ以降この地域は小豆の栽培が広くされていた
と記載がありました。

ここで空海が出てくんのか…

空海に東寺を下賜したのも嵯峨天皇でしたかね。
嵯峨天皇のイメージと言うと、正直あまりなくて、
「中国皇帝が使う色である、黄櫨染の衣(袍)を着始めた人」って知識しかない。
今生天皇陛下の即位式の時も黄櫨染の御衣装を着ていらっしゃいましたよね。

空海のことを頼りにしていて、空海と同じ三筆の1人で、薬子の変をおさめ、息子が源融(嵯峨源氏)って感じか。


二尊院を後にして、とことこ北の方へ歩いていく。
昔ながらの景観が残っている地区

趣のある建物が続く
街道っぽい

その奥の
『化野念仏寺』に辿り着きました。

キーワードは空海と浄土宗
紅葉🍁

ここまで来て、慣れないブーツを履いて歩いてきた足が限界を迎える。

「もう無理…帰る…」

ってことで化野念仏寺の前で引き返す。
まぁまたいつか来るでしょ。

説明板を読むと、
ここ『化野(あだしの)』は庶民の葬地であり、沢山葬られた人々の遺骸が散乱しており、(しかもこの時代だと風葬だから野晒しですよね)空海が供養するために石仏を建ててお寺にした。
その後、鎌倉時代初期に法然上人の念仏道場となり、浄土宗に改宗した。

という経緯らしい。

その後、嵐電嵐山駅の方に歩いて帰る途中に、
祇王寺(かつて平清盛が寵愛した白拍子、祇王姉妹が出家した寺)、檀林寺(嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子が建てた禅寺)、宝筐院(楠木正行と足利義詮の供養塔がある)の前を通って、嵯峨野の歴史の深さを噛み締めながら、帰宅しました。


以上が、私の思考を辿る旅ですが
本題はここからです。

刺激を受けたらとりあえずなんとなく調べてみるのが、常ですが、

まずは

①京都三大葬送地 問題

『化野(あだしの)』→今回の化野念仏寺周辺ですね
『鳥辺野(とりべの)』→東山の清水寺〜大谷本廟付近
『蓮台野(紫野)』→船岡山西側付近

『化野』は庶民の葬送地らしく、あの世とこの世の境目である六道の辻は、その①の記事の場所
『鳥辺野』は主に貴族の葬送地らしく、六道の辻は六波羅の六道珍皇寺
『蓮台野』は六道の辻は調べても出てこないけど、南にある千本釈迦堂の千本ゑんま堂は閻魔様が本尊で小野篁が開基らしいのでこの辺でしょうか。

②帷子ノ辻(たかびらのつじ)の由来
帷子とは生絹や麻布で仕立てた夏物の衣類のこと。
嵯峨天皇の皇后 橘嘉智子(檀林皇后)はそれはもう美しい女性で仏に仕える僧たちの心を奪い、修行に身が入らない様子を憂いて、自分が死んだ後は「亡骸を埋葬せずにどこかの辻に捨てて鳥や獣の餌にせよ」という遺言を遺した。
その場所こそが帷子ノ辻である。
と言う話。

③嵯峨御所大覚寺
嵯峨天皇は都の中心よりもこの嵯峨野の地を愛され、檀林皇后との新居として建てた離宮。
唐の新しい文化を伝えた僧侶たちに深く、帰依し、中でも弘法大師空海が恩寵を賜り、高野山の開山、東寺下賜、真言宗の立教開宗に至る。
その後、嵯峨天皇死後、嵯峨御所は真言宗の寺院として開山し、現在では真言宗大覚寺派の本山である。
亀山、後宇多天皇の系統は大覚寺にお住まいになり大覚寺統(南朝)と称されることとなる。

大覚寺統!??
あの大覚寺統!!ここの事だったんか!!
とびっくり!
南北朝時代の北朝(持明院統)vs 南朝(大覚寺統)の大覚寺やったんかい!!
南朝大好きなので、今度また南朝専用の御朱印帳持って行くことにします。
ちなみに持明院統は藤原基家の邸宅だそうです。
調べたら鴨川デルタの近くだった。
知らなかったぜ…

持明院統(藤原基家邸宅)


④嵯峨野という土地
場所が京都の有名な葬送地であるという背景的に仏教が密接に関わっている。
主に平安初期の空海(真言宗)→平安末期〜鎌倉にかけて法然(浄土宗)へと時代と共に移り変わっていることが察せられた。

思い出して欲しいが、
六道の辻を通った後、化野へ行く途中に『清涼寺』がありそこは源融の別荘でありました。
嵯峨野は天皇家の別荘地でもあったようです。
そのさらに奥に、宇都宮頼綱のサロン、その奥に二尊院があり、小倉百人一首の選定地の『時雨亭』その奥に『化野念仏寺』です。二尊院は当時から紅葉の名所だったようですし、
華やかな風流人の山荘やら紅葉の名所やら、冥界の入口やら葬送地がごちゃまぜになってて、世界観どうなっとんの?

さらに少し南にある『野宮神社』ですが、
伊勢神宮へお勤めする皇女が《斎宮》として向かう前の心身を洗い清める潔斎の場所であったらしい。

野宮神社は黒木の鳥居が見所

さらに嵯峨野は天皇専用の狩場である。

以上で、嵯峨野のごちゃ混ぜ感、カオスっぷり、清濁併せ持つよくわからん土地ということで、私の頭が大混乱していますよ!??という報告がしたかっただけなんですが、
どうですか?

わけわからんくね?

世界観どうなってるの?

ちなみに出発地点の佛教大学ミュージアムの近くの広沢池は秦氏による人工の池で、当時から観月スポットだったらしい。

嵯峨野 is  ミステリアス。

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