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代替可能な私というモノ

自分がモノになったなと感じる時がある。

労働に見合わない賃金だった時はもちろん、

濡れてないのに挿れられようとした時も

相手に都合のいい優しさだけを求められ、そしてそれに応えられなかったときの仕打ち
耐えがたい気持ちになったり、自分自身を信じられなくなる。

最近は、夫婦の会話の「ネタ」に私のプライベートな秘密を共有されてしまうことも多く、旦那さん側からそういうの聞いたりしてびっくりしちゃう時もある。

でもそんなこと、大きな視点で見れば大したことなんてなくて、挙げたらキリがない。

でも、そういう時の自分はただのコンテンツだ。消費されているだけ。
「私」という生々しい存在はない。
「なんでもよかったけど」の文章に続く代替可能なただのモノだ。

恋愛だって
ほんとありきたりなこと言うけどさ
1週間に1回くらい会って、カフェ行ったり動画見て過ごして、夜を共にし、たまーに旅行に行く
なんかそれって深い人間関係って言えるのかなって疑問に思う。
暇つぶしというか、別に誰とでもできること、たまたま近くにいた人で埋めている。

ねぇ、あなたは、目の前にいる人がちゃんとどんな人か知ってる?
短い人生さ、潰してる暇なんてないんだよ。

今、都会に住んでる人たちは新しい刺激やモノを消費するイベントに事欠かない。
そこに一緒に参加する意義っていうのは、あくまでも「その体験を通してその人を知り、仲を深める」ということにあると思う。
何かを消費することを目的とした途端、一緒に行く人はあくまでも実体をもった「相手」ではない。
そのうちAIと一緒に参加するようになってもなんの違和感も持たなってしまうと思うんだ。

私は人の持つ暖かさをずっと大事にしていきたい。
ショート動画をばーっと見るように対人関係を同じ次元で捉えていたくない。
そんな気持ちが強くある。

だからこれからも、私は徹底的に個別性を大事にしていきたいと思う。
目の前にいる人を代替可能な存在にしないように、本気で、真摯に向き合っていきたい。

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