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死生観

画像は関係ないけど伊藤若冲って方の鳩さん。なんとなく選びました。

リクエストをいただきまして、死生観について長文を拵えましたー。
表現を選ばずに全力で書いたので死を連想・イメージするのは怖いという方はそっと画面を閉じて、にんじゃりばんばんとかガチャピンの動画とか見たらいいと思います。

死生観。
死に対する考え方。てっきり生きることについてもいうのかと思ってたら違ってて、生きることに対する考えは人生観というらしい。
というわけで'死'について語らせてもらおー。

もうちょっと一般的なこと言いたいので調べてみたら、
久留米大学の心理学研究科の資料があったので流し読み。からのつまみ。
死生観とは「死と生にまつわる価値や目的などに関する考え方で、感情や信念を含むもの」と定義。
年齢による死への恐怖の度合いは、
「年齢と死への恐怖の関連について、青年群において比較的高く、中年群にピークとなり、老年群において最も低下する」との報告。
死生観と宗教
様々な研究と見解がありますが
「仏教・キリスト教を信仰している学生は無宗教の学生よりも、死に対する恐怖が低く生と死を連続したものとして捉えており、また霊魂の存在を肯定し死後にも生命が存在すると考える傾向が強かった」とあり
「死の恐怖は宗教を信仰してもあまり変化せずむしろ道への恐怖などを中心に部分的に関連を示す」との報告があるようです。

さて、どこかの大学の研究についてはこの辺にして、個人的見解をそろそろ。
メイポの死生観とは。

死について触れる前に、命について触れる必要を感じたので前置きを。
命、というものがある。
それは心臓ではない。動いているから命ではない。何かの反応でもない。
魂とは別に、触れて感じるあたたかさがある。
目には見えないけど、意思のようにひとりひとりにあるもの。
これが命。

死生観を語る、ということで〚死〛そのものに触れてみよう。

死を感じる。
そこにあるものとしてわかる。
死は自分の中にあるし、他人の中にもあるものとしてわかる。
手の中にも、足にも頭にも目にも、それはありとあらゆるところに点在し全てにある。
それはさながらブラックホールのように。
笑うわけでもなく、恐ろしさをまき散らしているわけでもなく。
それは役割・機能として存在している。
形は無く、そのくせどんな形もとれる。どんな体型の人にもフィットする枕のように寄り添えるように。
どんな場所だろうと存在できるように。
死はときどき匂いを感じさせる。
いや、無臭ではあるのだが、なぜか鼻が反応することがある。
急に鳴り始める信号機のように、この先に死があることを伝え足を止めさせる。
匂いがあるわけもないのに、もう一度鼻をきかせる。やはり感じる。
香りという粒子が漂ってるわけでもないのに、死の匂いだとわかる。
死は温かくもないが感触はある。
恐る恐る手を伸ばして触れる、触れているのは表面ではない、死。
ザラザラしているわけでもなく冷たく堅い印象でもなく、ブヨっと弾力があるわけでもなく・・・他に例えてもしょうがないが、強いて言えばサラッとした水に触れたときのように、雪のように、一瞬で触れた感覚もなくなる。
真っ暗で音も無い部屋で、目を閉じて手をおぼろげに伸ばして 'なにもない' とわかったときのような感覚。
終わった命。
自分の中に在り、時がきたらボクの命を止める。
まだボクの順番がきていない、というだけ。
だから死はそこらじゅうにある。虫も植物も動物も命あるものだらけだ。
生と死はそこにある。
死は存在する。死はある。

(余談だが、雨となって降り落ちて地面に叩きつけられて消えた水のことを死とは呼ばない。命あるものの終わりを死と呼ぶ。)

死は恐怖ではない。
人間が勝手に恐ろしいと感じてしまっているだけだ。
死による結末を回避したいが為に警戒しているだけ。
何かが終わり、何かが始まる。
この宇宙という基盤となっている場所はそういうルールになっている。
ボクの身体の中でもどこかの細胞がその活動を終えて、新しい細胞が生まれている。
死の先は肉体の終わりであり、消滅である。

命の終わり。
ついにボクの人間としての生が終わり、身体から魂が離れ、魂だけが存在する場所へと行く。
そこでようやく永遠で死も終わりもない。
命を得て命を尽くして体験したことは魂のレコードに記録される。
魂の場所でまた人間としての経験を必要とするかどうか検討される。
もう充分、と判断されれば人間ではなく、たとえば星となり宇宙の進行の手助けをするかもしれない。
人間ではなくとも今度は星という人間とはスケールの違う期限付きの体験をするのかもしれない。
延々と様々な体験を重ねて自分を表現する旅を続けるのが魂。

このあたりから話のスケールが莫大に広すぎて若干キャパオーバーしているけど続けてみる。

魂の死とは。
魂は宇宙そのものと似ているかもしれない。
魂の死は宇宙そのものの終わり。また無へと還りなにかのちょっとしたきっかけで形を成すかもしれない。
無はすべての魂の還る場所であり、すべてがはじまる場所。
「死」は終わりであり、ゼロに還ることである。
〚死〛について考えたらこんなにも壮大な旅になるとは思わなかった。

それから、寿命とか事故とか災害による死についても考えてみる。
寿命というのは、産まれてくる前に神様と相談して、ボクは人間としてこれこれこういう体験をしたいから、寿命はこれくらいにするね、と話して決めてくるものなのだ。
予定外のこともある。
事故とか災害は基本的には産まれてくる前だろうと自分からそういう死を望むわけではない。
本当にただ不運だっただけなのだ。
極悪な神様や悪魔が天変地異とか事故を起こすようなら、人間に優しい神様がバチギレしてすべてをひっくり返してもその存在を追いやるだろう。
自然災害は自然が起こしているのだからどうしようもない。
被害に合わないように逃げたり家をものすごく強く堅くするとかそんなことしかできない。
事故は当事者が起こそうと思ってやったわけではない。
(悪意があって起こしたのは事故とは言わない)
悪魔がささやいてアクセルを踏みぬいたとかではない。
そんなものがいるなら神様バチギレ案件だしエクソシストが闊歩するファンタジー世界になるが、ずっと人生かけて探したり待ってみたがそんなことはならなかった。
繰り返すが不運だったのだ。
すべての事象に神の意志が宿るなら、神の声が聞こえる者は、サイコロを投げた瞬間に結果はわかるし、ギャンブルというギャンブルはすべてうまくいくし、事故や災害に巻き込まれて亡くなった方は神に殺され、産まれてくる前に自分から望んで事故や災害の現場に向かうということになる。
そんな無茶苦茶な話は無い。
偶然はあるし、ランダムも存在するし、不確定なこともある。
予定外の死はありうるのだ。

さて、ここまでは誰もわからないこと前提のボクの感覚のみで語ったので、
ここからは一般的にもうすこーしかみくだいて表現してみよう。

冒頭に書いた定義で「死と生にまつわる価値や目的などに関する考え方で、感情や信念を含むもの」とあるにも関わらず、
感情とか信念ぶちぬいて死そのものについて触れてしまったので、ここでようやく定義にそって書いてみます。

「死と生にまつわる価値や目的などに関する考え方で、感情や信念を含むもの」
この定義に則り、感情を含めて自分なりの捉え方を書くと。
生は喜びで、死は恐怖だと思います。
基本的には"生きたい"って欲求の上に生存活動していて、一日でも長らえるために"死"という終わりを全力で回避する。
死を恐怖することで生きるための方法や活路を見出そうとする。
これが普通の人間の基本設計だと思います。
上のほうで死は恐怖ではない、と書きましたが、死の役割について書いたので、死に対する人間の感情とはまた別のお話です。
今は自分だって死ぬの怖いです。

ここでまたちょっと自分のエピソードを出すと、
20代のときに母が倒れ、自分が家族を養わなければいけなくなりました。
でもなんの人生設計もしてこなかった自分には、すぐに就職もできず、自分のやりたいこともあったために自分のことを後回しにできるほど器用でもなく、自分のことも家族のことも支えることができなくなったボクは、自殺を考え行動に移しました。
家族のことは結局、兄弟が多かったために姉と弟が働くことでどうにか生活できることを確認し、兄弟に押し付けて自分は逃避したのです。
難しくないかんたんで確実に死ぬ方法を選びました。
たばこを飲み、ビルの屋上に立ち、あと一歩で屋上から転落すれば自分の人生は終わり。
そのはずが《生きたい》《なぜ死ぬんだ》《生きよう》と自分の内から全力の声が聞こえました。
その時の衝撃はずっと忘れられずに、こんなにも《生きたい》と願うものなのか、と驚きました。
それから怖くもなんともなく望んでいた【死】が恐ろしくなり、足が震えながらも安全なところまで戻り、救急車を呼んで後遺症もなく無事に助かりました。

死を恐怖する、生きたいと渇望するのは人間の根源的な欲求なのだと、この体験を通して感じました。

次に、年齢による死への恐怖の度合い。
幼いころに祖父を亡くしましたが、死を理解できずにいました。
小学校にあがったころに自分の中の…いまだになんと名前をつけるべきなのかわかりませんが、いわゆる霊能力が備わっていることに気づき、おそらく普通よりも違った観点から死を眺めることになったと思います。
年齢による恐怖の度合いというものは、
おそらくこどものときにある「よくわからん死に対する恐怖」→青年期の「家族ができて家族を守るために死ぬわけにはいかない、自己実現のために死ぬわけにはいかない」→老年期の「やってくる死の受け入れ」という段階ではなかろうかと勝手に想定。
ボクの場合は、死、そのものを眺めたことにより、年齢によって恐怖の度合いが変わることはないですね。
死はあるし、いつかやってくるし、きたらしゃーない。
行きますかー旅立ちますか。(でもなるべく生きて楽しみたいなぁ)と思っています。
年齢による度合いは、実感が早いか遅いかの違いなだけなような気がします。

次に、宗教による違い。
ボク自身は無宗教ですが、いわゆる輪廻転生とか霊魂の存在を信じるほうなので、どちらかというと宗教に属してる側に立つと思います。
自分なりの宗教ってやつですね。
輪廻転生とか霊魂とかまんがからの影響を受けて、自分の霊能力を通して再検証した結果、転生とか霊魂あるよねーと判断し、それに関連付けて死に対する興味はいやおうなく自然と高くなりました。
しかしここまで文字にしてまとめたのは初めてですが笑

以上でメイポの死生観について言葉にしてみました。
リクエストとは違うことを書いてしまったような気もしますし、死生観について語るならこんなテンプレートやで、というのが見つからなかったので、フリースタイルでやってみました。

自分だけの感性と
一般的な死生観とは、を大学の研究に合わせて、そこから自分のエピソードを交えて語ってみましたが、いかがだったでしょうか?

今となってはやりたいこともやれてますし、
風邪とかひいて高熱でたときやものすごい体調不良におそわれたときは、
すぐに死ぬー死ぬー死ぬのやだーつらいのやだー早く体調良くなって楽になりたいーと騒いで病院行って布団の上でじたばたしております笑
占いでこの人、生きようとしてないなーと感じた人には生きなさいとガチギレしますし。
事務所やいろんなひとに迷惑をかけながらも生きております。
これからはもっともっと幸せになって、お世話になった人たちにお返しをして、ちょー楽しかったー!満足したー!と好き勝手やって旅立ちたいなぁと思っております。

おそらく人間としては最後の人生なんじゃないかなー?と思いますが、こりずにまたやってくるかもしれませんし、あの世でお仕事に追われているかもしれません。
またどこかでお会いしたらよろしくです。

この拙い文章が少しでも貴方のお役にたてたら幸いです。
読んでいただきありがとうございました。
2021/05/13

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