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話すということ。

日常生活の中心は手話である。
私が手話というものを知ったのは、きっと聾学校幼稚部だったのかもしれない。同級生の一人がデフファミリー(ろう家族)だったからだ。

その後、幼いながらも実際に話した記憶があるのは、小学校の時である。母の実家の隣にろう夫婦がいた。老夫婦ではない。大事なことだから、もう一度言う。ろう夫婦がいた。手話で会話をしていたこと、今思うとそんな早くに出会っていたんだなあと振り返ることもできる。

しかし、私はまだ知らなかった。
当時、チャイムを鳴らすとき、お知らせランプなるものがある。それはどのようなものかというと、赤いパトランプを想像したらわかるだろう。チャイムを押したと同時にパトランプが回るのである。その時に確か夕刻の時にチャイムを押したときに「警察が来た!!!」と思い込んでしまった。幸い留守だった。外がうす暗い時に部屋の中が赤く染まったように見え、そしてはっきりする合図でのお知らせランプが恐怖だったことを覚えている。
その後何度か鳴らしたものの最初の恐怖感が襲って慣れなかった。そして体が拒否反応したようなかなりの衝撃を受けた。

それでもそのろう夫婦は笑顔で迎え入れ、時々犬と一緒に遊んだことが今でも記憶に残っている。手話を知るのと同時に私の中の心に手話という存在が強く芽生えた。当時は手話そのものが偏見の多い時代だっただろうに。そのろう夫婦がたくましく生きた証は私も忘れることができない。尊敬するろう夫婦だった。中学の時にろう夫婦の妻の方が先に亡くなった。しばらくして高校の時にいとこが結婚式に招待された。同じテーブルにあのろう夫がいた。周りは声の文化だったのに、私が母を通して一生懸命、ろう通訳したことは今になって思うと、すごいびっくりしている。

残念ながらいつ亡くなったのか定かではないが、ろう夫婦が亡くなったのと同時に家は更地になった。家の目の前にあったキンカンがオレンジ色に染まって、一つの記憶のかけらとなった。

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