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「それがどうした」と叫びながら生きること

私は幾原邦彦監督のアニメが好きだ。
『輪るピングドラム』が放送から8年経ったいまでも大好きで、毎月登場人物とおなじようにカレーを食べてるし、劇中に登場する街の近くに住んでいる。ある種、信仰と言われても仕方ないような「好き」を抱えている。

ところが、そのピングドラムから8年経って、新たに名前を付けて保存するような作品が届けられた。『さらざんまい』だ。
ピングドラムでは「1人の女の子が死ななかった世界」を作るために、2人の男の子が女の子とのつながりを断ったが、さらざんまいは違う。「自己犠牲はダサい」とハッキリ言った。これは次世代の話なんだ、そう確信した。

そして先日放送された最終回。
主人公3人が、この先一緒にいる未来は決して明るいだけのものではないと教えられてもなお、繋がることを望んだ。おとぎ話のように「めでたしめでたし」とはいかなくても、つらく悲しくて失望するような夜があっても、それでも3人で未来をともに歩みたい。
そうした強い「生への衝動」を感じたのだ。

幾原監督は、隅田川から命を感じた、と言っていた。
たしかに、川のあんなに近くに整備された遊歩道があって、とめどなく流れる大量の水の流れを感じられる場所は、東京23区内だとそうそうない。
さらざんまいの舞台は、吾妻橋からかっぱ橋までの浅草だ。
川の流れは、人生なんじゃないかと思う。
強い勢いで流れる隅田川に、「それがどうした」と力強く隅田川に飛び込んだ久慈悠に、生命の力強さを感じたのだ。
さらざんまいを見て、私は生きることの価値を認めてもらったような気持ちになった。

ところで、一部で主人公3人死亡説が唱えられているという。
それを見て感じたショックは、いつだか仕事でハリウッド式脚本術を用いたおとぎ話の翻案を依頼されたときに感じたショックと似ている。
その仕事で、登場人物の感情の流れを優先させて、脚本術のメゾットをいくつか入れずに書いた。
ところが、クライアントからは登場人物の感情の正しさよりも、メゾットの項目をぜんぶ入れていることを求められた。
いまなら「まあ仕事だし」と割り切って書けるが、当時はまだ学生で若かったので「感情を無視して暴力的に数式を押し付けるなんて」と憤った。
その憤りと似た感情を、死亡説を見て感じるのだ。
さらざんまいの主人公たちは、あれほど生きることにこだわっているのに、どうして死んだことにしてしまえるんだろう。全11話、なにを感じてきたのか。主人公たちの必死の行動がなかったことにされてしまっている、と感じて悲しくなってしまった。

まあともあれ、私は映像を見ていて感じたメッセージ──つらいことがあっても、それでも、むしろそれがどうした、と飛び越えて生きること──を1番大事にしたいし、幾原監督のアニメを見ることは「体験」であり「対話」だし、私は私が信じるものを貫こう。ユリ熊嵐でも好きを貫いていたし。

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