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Stories of Chai - 二匹のハエのお話

Stories of Chai ー インドのChai(チャイ)は甘くておいしいミルクティ。そのチャイを囲みながら語られるのは、私たちの心に響いた、とっておきのストーリー。これからお話しするのは、そんなお話のひとつです。

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2019年の10月、私はイタリアのローマに滞在していました。ローマの市街地からやや北に行ったところにポルタ・ピア(Porta Pia)という広場がありますが、その近くのAir bnbに約3か月間住まわせてもらいました。

そのお家は、ローマの都会の典型的かつ伝統的なアパートメントで、通りから大きな扉を開いて中に入ると、管理人室と中庭があり、その横についたドアを開けて大理石の階段を上がっていくとそれぞれのお家のドアに辿り着くようになっていました。私の滞在したAir bnbのお家には家主の〇さんが一人で暮らしていて、ゲストは私一人だったので、3か月間、私はローマのことなら何でも知っている経験豊富でホスピタリティあふれる〇さんと共に素晴らしい二人暮らしの時間を味わいました。

〇さんのお家はアンティークでとても可愛くお洒落に仕上げてあり、私は家に到着した瞬間から大好きになりましたが、中でも私のお気に入りはキッチンでした。

外の通りに面したキッチンには大きな両開きの窓が付いていて、日の光がたくさん差し込んでとても明るい空間でした。小さなキッチン兼ダイニングルームでしたが、手入れがとてもよく行き届いていて、調理器具一つ一つにもストーリーが感じられるような置き方がしてありました。私はいつも、そのキッチンのテーブルに座ってご飯を食べたりカプチーノを飲んだりしながら、窓の外を眺めたり、外から聞こえてくる街の音に耳を澄ませるのが楽しみでした。

ローマの10月はまだ夏の名残りで暖かく、キッチンの窓は開いていることがほとんどでした。日本と違って窓には網戸も何もついていないので、外からは虫たちが自由に行ったり来たりします。中には、家の中に入ったっきり、外には出ていかない虫もいました。

ある時、キッチンの中に小さなハエが二匹迷い込みました。どうやら家の中が気に入ったらしく、私は毎日、朝ごはんと夕ご飯の時に決まってこの二匹のハエがキッチンを飛び回るのを見かけるようになりました。時々、このハエがテーブルでクロスワードをしている〇さんの腕にとまると、〇さんは

「もう、このハエときたら!」

と言ってパンっと手でハエのいる方を叩きました。向かいに座っている私も、忙しく飛び回るハエを見ながら、「もう少し静かにしてくれないのかなあ」などと思ったものでした。

この二匹のハエがキッチンに住み着いてかれこれ1週間ほど経ったある日。〇さんは夜、友だちと会うために外へ出かけ、私は一人キッチンで夕食を食べていました。そこへ、ハエの一匹がやってきて、私が飲んでいた水の入ったコップにとまりました。手で払っても何度も何度も来るので、私はちょっと意地悪な気持ちになって、このハエが水面の近くにとまった時、指でつついて水の中に落としてしまいました。どうせ泳いでまたコップのへりに戻ってくるだろうと思ったのです。水の中に落ちてしまったハエは、足をバタバタ動かして泳ごうとしましたが、そうこうしているうちに、疲れてしまったのか急に動かなくなったので、私は慌てて指でハエをすくい上げ、テーブルの上にそっとのせました。

「死んじゃったの?」とドキドキしながら見ていると、やがてハエがゆっくりと体を動かし始めたので、私はほっと胸を撫でおろしました。とはいえ、羽が濡れてしまったのですぐには飛べません。私はそのハエのリカバリーの様子をじっと見守りました。一方、もう一匹のハエは何事もなかったかのように辺りをブンブン飛び回っています。

「ハエだから、きっと気づかないんだろうな。もう一匹がリカバリー中だということは。」

私はじっとリカバリー中のハエを見守りました。

と、そこへ、さっきまで辺りを飛び回っていたもう一匹のハエがやってきて、リカバリー中のハエの上に被さるようにしてとまりました。

「ちょっと待って、何する気?!」

さっきまで無関心だったのに、今度はこのリカバリー中のハエを襲うというのでしょうか?私はハラハラしながら様子を見守りました。

すると、後から飛んできたハエが面白い動きを始めました。リカバリー中のハエに被さりながら、しきりに羽をはばたかせるのです。何度も、何度も。しばらくして、リカバリー中のハエも一緒になって羽をはばたかせ始めました。二匹で同時に何度も何度も羽をはばたかせます。

そして私は理解したのでした。このハエはもう一匹のハエが羽を乾かすのを手伝っているのだと。二匹の様子を見ていると、そこには意思疎通があることがつぶさに感じられました。時々休んでは、また何度も何度も二匹で一緒に羽をはばたかせます。だいぶ長いことそうした後、やがて、二匹のハエはそれぞれに空中へと飛び立っていきました。

私はその後、一人厳かな気持ちで夕食を食べ終えました。

翌朝、私がキッチンへ行くと、いつものごとく、二匹のハエがブーンと忙しく飛び回っていました。

「おはよう。調子はどう?」

私は二匹に向かってやさしく語りかけながら、朝食の準備に取り掛かりました。

それからもしばらく、この二匹のハエはキッチンでの滞在を続けましたが、あの夜以降、私は一度も、この二匹のことを目障りだとは思いませんでした。代わりに、二匹を見るたびに、静かな尊敬の気持ちと愛おしい気持ちが私の胸を訪れるのでした。


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ー 朝ごはんの風景。二匹のハエが辺りを飛び回っていることもあった。

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