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旧日記:12月4日

12月4日 晴れ
 昼過ぎから散歩。日が暮れてから買い出し。買い物を済ませた後、月の下に中村川をまたぐ橋を渡っていると、小説の紙片が一葉、二葉、街灯の明かりの中に落ちている。拾い上げてみるとそれは谷崎潤一郎の『痴人の愛』の一部分で、僕はそれにちょっと異様な感じを受けた。なぜなら日に焼けて端の赤茶けたそれは、読み古すことで自然に破れ得るような表紙や巻頭の目次などでなく、物語の中途の部分であったから。またいくらかの折り目はついていながら雑な破り目のないところからして、わざとこの部分だけを選んで抜き取ったというに違いなかったから。
(場面は主人公が元妻とよりを戻すまでの間の微妙なやり取りの部分であった。女は別れた主人公の家に毎日のように自分の荷物を取りに来る。それも一日に細々としたものを少しずつ取りに来ては、食卓などに居座ってお茶でも飲み始めてしまう)
 持ち主は故意にこの部分をこの橋の上に置いて行ったか、故意でなければこの二葉だけをポッケに携帯していた。どちらにせよ彼はこの二葉に特別を感じていた。
僕はまた谷崎潤一郎のこの町に住んでいたことを思い出して、やはり前の考えを強くした。谷崎潤一郎の住んだこの町を、彼の小説をポッケに入れて歩いては、その気分を味わっていたのである。
僕はその場にそれを終いまで読んでしまって、自分にもこんな風に、人心を掌握した気になって得意に話しかけてくるのが癪な、それでいて嫌えない女のいたことを思い出した。

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