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赤い魚

 あれはいつのことだっただろう、と娘の背中をさすりながら思った。そう、きっと今のこの子と同じ小学2年生くらいだ。あの頃私は、眠ることが怖かった。いや、眠ることが、という言い方は正確ではないかもしれない。正しくは、「夜に目を瞑ること」が怖かったのだ。夜の暗闇と静寂は、まだ幼かった私にも色々なことを考えさせた。それも、あまり良くない事ばかりだ。

 私の両親は私がまだ3つの時に亡くなっており、それから私は母方の祖父母に育てられた。そのため、両親と過ごした記憶というのはほんのわずかにしか残っておらず、その記憶も、後に祖父母が見せてくれた写真を元に作られた部分も多いため、実際に自分の記憶の中にどれだけの思い出が残っているのかは私にも分からない。そして、小学生ながらに、自分が他の子と違って「かわいそう」なことは理解していた。しかし、祖父母は私に不憫な思いをさせないよう、優しく、時には厳しく、両親を亡くした私に不自由のない生活をさせてくれた。だから、私は夜の暗闇の中で目を瞑りながら、「もし、明日おじいちゃんとおばあちゃんがいなくなったらどうしよう」、「もし朝起きたらひとりぼっちだったらどうしよう」ということばかりを考えた。考えないようにすればするほど、祖父母がいなくなってしまう想像ばかりが膨らんだ。祖父母だけではなく、私も一緒に襲われる夢を見たこともある。そんなことが続いたある日、私は別の部屋で眠る祖父母の部屋を訪ね、一緒に寝てもいいかと尋ねた。祖父母は驚いた様子で私を見つめていたが、その日から私は2人に挟まれて眠ることになった。

 祖父母と一緒に眠ることになっても、夜の闇は私を解放してくれなかった。それどころか、この頃は悪い想像に取り憑かれるだけではなく、目を瞑ると不思議な情景が目に浮かぶようになった。それは、宇宙のように広くて果てしない空間で、向こうから様々な色をした図形が流れてくるというものである。赤い線に縁取られた円形や、緑に点滅する四角形などが、宇宙のずっとずっと奥から私の方へゆっくりと流れてくるのだ。もちろん目を開ければそんなものはただの想像にしか過ぎないと分かるのだけれど、またそれが見えたらどうしよう、と思うと目を瞑るのが怖かった。世界にたった1人ぼっちになってしまったような気がして、毎日眠る時間がやってくることが怖くてたまらなかった。大人になって、世の中には「不思議の国のアリス症候群」という、子供が自分や周りのものの大きさが大きくなったり小さくなったりして見える症状があるということを知り、自分もこれだったのかもしれないと思ったこともある。私の場合は夜、目を閉じている時だけであったけれど。

 そんな想像や幻覚に悩まされていたある日、祖母も私の様子がおかしいのを感じ取ったのか、「ゆうちゃん(私の本名は優陽という)が眠るまで起きてるから大丈夫だよ」と言ってくれた。その日から私は祖母に抱きついて眠ることになった。ちょっと前までは1人でベッドで寝ていたこと思うと少し恥ずかしさもあったが、それ以上に、祖母と体が触れ合っている安心感の方が強かった。祖母は、私が眠りに落ちるまで、私の背中をトントンと叩いてくれた。優しく、一定のリズムで、叩き続けてくれた。それが祖母の起きているという印だった。暖かく、細い手で、「大丈夫だよ、おばあちゃんが横にいるよ」と言ってくれているような気がした。たまに私がまだ眠っていないのに、祖母が先に眠って手が止まったりすると、その度に体を少し捻って、「私はまだ眠ってないよ」ということを示すアピールをしたりしたこともあった。

 結局こうして祖母に手を背中を叩いてもらいながら眠る習慣は私が小学校を卒業するまで続いた。祖母と寝ている間も、暗闇の中で図形が流れてくる幻覚は良く起きたが、祖母がまだ起きていることが分かっていたからパニックにはならなかった。そして私が中学生になり、再び1人で眠るようになる頃には、そうした幻覚と、怖くてたまらなかった気持ちはどこかに消えてしまっていた。

 そして、つい数ヶ月前、小学2年生になってしばらく経った娘の真由が泣きそうになりながら、1人で寝るのが怖い、と私に言った。理由を聞くと、「目を瞑ると赤い魚が見えるから」だという。夫は悪い夢でも見たんじゃないか、と深く考えていなかったが、私はその時、すっかり忘れていた幼い頃の自分を思い出した。そして、かつて祖母がそうしたように、真由を抱いて眠ることにした。真由は、あなたが眠るまで背中を叩いていてあげる、と私が言うと安心して眠ったようだった。

 私は、祖母の優しく細い手を思い出しながら、真由の背中を叩いた。あなたも、怖かったのね。ごめんね、気づいてあげられなくて。夜の闇に紛れて、子どもの頃にだけ現れる妖怪。私は不思議な図形の形だったけれど、どうやら娘には赤い魚が見えているらしい。赤い魚が消えたり現れたりするのだと言う。祖父は私が大学4年生の頃の病気で、そして祖母はその2年後に同じく病気で亡くなった。そして私は今、娘の横で目を瞑りながら、天国にいる祖父母に向かって、「ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん。私たちを守ってくれて」と心の中で呟いた。




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