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因襲化する私たち

お祭りとなると、普段はこんなに人がいないのに、一斉に集まって同じ格好をして、同じ掛け声をして、一つの神輿をみんなで担ぐ。私は子供の頃から神輿を担ぐのが嫌で、担ぐのをサボっていたら母に怒られたことがある。

これは2、3年前に撮影した地元のお祭りで、私はこの町会の一人であるけれど神輿は担がずに、良さそうな場面だけを狙って撮影した。私はこの街に住む一人であるが、お祭りの参加者としては部外者でもあった。

共通の行為や言葉、文字や記号を使い、互いに認識し合う中で、それらが因習化し、やがて文化となっていく。これは「アウトサイダーズ ラベリング理論とは何か」、という本での一節で、私はこの部分に非常に興味を持った。それで、これの分かりやすい例がお祭りだろうなあ、と考え、撮影を試みた。

私は部外者の視点と参加者の視点と、非常に曖昧な立ち位置で宮入りを眺めていたが、想像を超えるほどの長い時間、神社で老若男女が代わる代わる神輿を担ぐ光景は、霊的なものや宗教的なものを肌で感じて、感動を覚えた。

初めはきっと何かのために始まったお祭りだと思うが、現在となっては神輿を担ぐ、という行為自体に意味を見出している人が多いように思う。

古くからの習わしや、しきたりのことを因襲という。初めは新しかったことも次第に因襲化していき、やがてそれらが文化になっていく。これはどんな小さな事象でも、例外なく共通して現れる現象だと思う。

誰もが何かの集団に属し、そして何かの集団から外れていること、それを全ての人が自覚するべきであると私は思う。名前や行動の内容が少し変わるだけで、文化が出来るシステムは、どれもこれもみな一緒である。

やっぱり二階の窓から神輿を見ている方が、私は丁度良い。掛け声を聞きながら、畳の部屋でグウタラと寝るのであった。これも文化の一つである。

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