見出し画像

隣の席の美々子さん

彼女は黒いパンツスーツで大きな皮の重そうなトートバッグを足元にどさっと置いて座った。小柄で細身で黒髪をキュッと一つに結んでいて、腕時計は文字盤が赤ワイン色のベルトはステンレス。無駄なものが一つもない。コーヒーを一つ頼み、店主が淹れている間にタバコを取り出し、火をつけた。やはり無駄な動きがない。こんな瞬間を見ている時、私もタバコ吸おうかなあと思ったりする。

フウーっと煙を吐き出し一息ついた美々子さんを見て、私は休みでボケボケした脳みそのまま、「今日はお仕事ですか?」と声をかけた。明らかに書類がパンパンに入ったバッグを見ているのに、そういうつまらない質問を私はしてしまう。察しが悪く、気が利かない。美々子さんは「そう、朝早くから仕事してたから今日は早く上がって…」と、コーヒーを挽いたり他の客のドリンクも一緒に作ったりしている店主と同じくらいの忙しさで、美々子さんは今日のいろいろなことを私に話してくれた。この店に来てやっと人と話している私は、テキパキちゃきちゃき話してる美々子さんと仕事に熱心な店主とを、話を半分聞きながらほとんど、二人のその動作だけに注目していた。病み上がりの子どもみたいな感じで私は今、この二人を見ている。

画像1

大人はいつもやることがいっぱいだ。私は風邪をひいて休んだ子どもの頃を思い出した。私は家にいて寝ているだけだけど、あっという間に一日は終わり、夕方母が帰ってきて私の熱や症状を少し見ると夕飯作りが始まり、父は夜帰ってくると私の具合をなんとなく眺め、ポカリが足りなければ買いにまた外に出て行ったりしてた。

同じ一日を過ごしているのになぁ、と今日の私の社会の狭さについて考えていた。でも人間として地球に存在する以上、私も立派な社会構成員の一人ということで間違いなく、だから、例えば今日あと二つか三つ、別のコミュニティにいたとしても、私の世界の見え方というのは風邪をひいた子どもの頃と同じなのかもしれない。

美々子さんの前にコーヒーが出てきた。ソーサーに載せられているオマケのビスケットをパクっと食べて一口飲む。それにつられて私もコーヒーを注文する。今日は何もしていないけれど、美々子さんの話を聞くことと、コーヒーを一杯飲むこと、それだけが私の使命なような気がした。

よろしければサポートをお願い致します。マガジン「一服」の資金に充てます。