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普門館に行けなかった話

中高と吹奏楽部でチューバを吹いていた。なぜチューバを選んだのかと言うと、人と争いたくなかったからだ。
吹奏楽部に所属すると、まず担当する楽器を決める必要がある。人気楽器の類はどうしても人と争う必要がある。私は争うのが嫌だった。今もあまり好きじゃない。チューバを選んだポジティブな理由を言えば、お腹に響く低音が好きだからであり、パートの先輩がきさくな良い人だったからだ。そんなこんなで争わないチューバを選んだ。

目論見通り、チューバは争わない楽器だった。白い音符をおおらかに追っていけばよかった。多少間違えても花形楽器より目立たない。トランペットのように失敗が許されないファンファーレを吹くこともない、フルートのように華麗に舞うようなメロディーを奏でることもない、サックスのように粋がることもない、ホルンのように主題を提示することもない。たまに数パートのみの演奏で目立つ小節があると、全力でビクビクしながら吹いていた。

今思えば、吹奏楽があまり好きでなかった。そもそも音楽がそこまで好きじゃなかった(大問題!)ただし、やめるほどの勇気はなかったし、継続力だけはあったので、しぶしぶ続けていた。

中学も高校もあまり強い部活じゃなかった。銅賞と銀賞しか取った覚えがない(吹奏楽コンクールでは、金・銀・銅に賞が分けられ表彰される。金賞のうち上位○校が、県大会を突破できるシステムだった)それにも関わらず、練習はそれなりにハードだった。特に高校は地方の公立高校あるあるらしく、勉強も部活も手を抜かないのがモットーと言わんばかりに、月に一度休みがあるかないかくらいの練習量だった。今思えば、日曜日くらい休めばよかったのにと思うが、真面目な地方女子らしく(女子高だった。ただでさえ女子の多い部活だが)、誰もそんなことは提案せず、練習時間だけは長くなる一方だった。

顧問の先生は音楽が専門ではなかったので、あくまでサポーター的な位置づけで、自主運営をしている部活だった。ただ、指揮者や各パートは地元の交響楽団の楽器奏者の方が先生として時々指導してくださっていた。チューバも現役の楽団員の先生から教えていただく機会があった。
部活内の音楽への温度差は大きく、私は低い方だったが、音大に行ってプロの音楽家になった同級生もいたので、とても熱心で技術もある生徒もいた。彼女たちのような温度の高い人達と私のような温度の低い人達とギャップを埋めることが、例年の課題になっているような部だった。このギャップが埋められた世代は大会を勝ち進んでいたように思う。ちなみに、私の世代はあと一歩だった。県大会の先に進める順位の2個下の順位だったと記憶している。県大会の先に進めると高校3年生の引退の時期が遅くなるので、大学受験への準備期間が短くなってしまうみたいなジレンマもあって、何が何でも1位になってやるという気概が持てない部員が多かったのも勝てなかった一因かもしれない。

吹奏楽はそんなに好きでなかったけど、そこで会った仲間はかけがえないのない仲間で、良い友人たちに会えたことは感謝している。継続は力なりとは言ったもので、高校3年生の最後にはバリバリと良い音で鳴らせるようになっていたし、気迫のある演奏が出来るようになっていたと思う。定期演奏会のアンコールにいつも演奏したスパニッシュ・フィーバーのあの高揚を今でも思い出す。死にそうになったドラゴンの年の16部音符のタンギングを今でも思い出す。(チューバにあそこまでやらせるなバカ!)
温度の高い人達に引っ張られて、私も最後の数ヶ月だけは本気だった。これで最後だと思っていた。卒業したら吹奏楽はやらないと。確かコンクールの曲は、指揮者の方がオーケストラの曲をアレンジして吹奏楽の曲にしてくださっており、オリジナリティのあるステキな曲だった。これは、本気で吹かないといかん、そう思って自分の出せるだけの力で練習していたことを思い出す。昔取った杵柄で、今でも低音の耳は残っていてゴスペルの低音パートの人の音がずれていると身震いするし、肺活量が増えたので、未だに心肺蘇生訓練の人形に人工呼吸をすると全力で青ランプがつく。

前置きが過ぎた。

普門館の話だ。私の世代は、吹奏楽の甲子園といえば普門館だった。吹奏楽コンクールの全国大会は普門館で開催されていた。宇宙を思わせる黒い床で静謐な空気を感じながら数々の名演が繰り広げられたというあの普門館である。私は県大会で負けたので、その普門館という響きだけで、恐れ多い場所のような気がしていた。高校時代で燃え尽きた吹奏楽への情熱は、燻る炎はどうしても残っていて、一生のうち一度でも普門館で全国大会の演奏を聴きたいと思っていた。甲子園に一度は行って試合をみたい元球児みたいなものだ。行きたいと思いながらときが過ぎた。本気で行きたいのなら、上京してすぐに行動すべきだったのだ。

知らないうちに普門館は耐震性がないということで、全国大会の会場ではなくなり、聞けば今年の12月から取り壊されるという。え、もう全国大会とっくにやっていないのか、しかも取り壊されてしまうのか。そして、11月はじめに恩返しの一般公開がされるという。気がついたのが8日、最終日は9日。9日の午後は外せない予定があったので、9日の午前に娘を抱えて普門館に行った。行ったは良いが、長蛇の列。聞けば1時間半待ち。待てば午後の予定は間に合わない。万事休す。もう中には入れない。午後の予定をどうにかするほどの出来事か少し迷った。もう私は二度と普門館の中には入れない。

でも、これで良いのだと思った。好きでなかった吹奏楽。燻る炎だけが残った吹奏楽。中まで入るほどの資格が私には無いのだと、思えば良いじゃないかと。私よりはるかに大きな情熱と想いを持って吹奏楽にかけた人がたくさんいる。彼らにその想いを託そうじゃないかと。周りの写真だけ撮った。

これも一つの運命かと思った。もう聞くことはあっても奏者としては吹かないであろう吹奏楽。さようなら普門館。そしてありがとう。


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