主観と客観

自分が見ている世界と他人が見てる世界って、同じとは限らないよねって不毛なことをいつも考える。

極端な話、私が見ている「りんご」は他人が見ている「りんご」と同じ造形である保証はないと思う。「沙耶の唄」はエロゲだけど設定自体はほんとに確信をついている。私が思う人の形と全く同じように他人が人の形を捉えている、なんて誰も証明できない。

自分が捉えている自分を、他人が同じように捉えているとも限らない。例えば私のコンプレックスを他人が酷いと思っていないなんてことはよくある話だ。私はかなり自己肯定感が低い(そんなに直そうと思ってないけど)が、他人にとってはそれほど悪い人間では無いかもしれない。どっちが正しいとかないし、それが同じである必要も無い。自分が思っていることに満足していたり、それなりにそれでいいと思ってたらもう充分だと思う。押し付けたり、無理やり直そうとする行為はいらないお節介にすらなりうる。

同様に、自分がそれを見て感じることと、他人がそれを見て感じることは同じでは無い、当たり前だと思う。人それぞれ独特の思考回路があって、そこにバイアスとか認知の歪みとかがかかってひとつの思いになってるわけで。だから、「普通こう思うじゃん」ってことは通用しない。人それぞれ普通が違うし、その人の回路的にはそうなるけど他者の回路は違う場合が多いから。だからこそ、回路を伝える努力が必要だし、その回路を読み解こうとする姿勢が必要だと思う。

この「話し合い」は人が生きていく上で、そして他人と関わる上でほんとに大事な営みだと思う。でもこの営みは全然簡単じゃない。そこになんで、とか、こっちが正解、なんて極端な話無いし。対話はコスパがかなり悪いのだ。だから人間、どうでもいい相手にはこの対話をしないという選択肢を取ったりする。自分が体力を消耗することと、相手に勘違いされることを天秤にかけて、勘違いの方がマシか、となるわけだ。対話を放棄しているわけだけど、これは相手が分かろうとしていない、対話を受け入れる姿勢が整ってないってこともあると思う。分かろうとしてない相手に対話を持ちかけるのが1番体力を使うから。そこまでしたくないし、誰だってしんどいことしたくないもん。

だからこそ、私はいつでも対話を分かろうとする姿勢を持っていたい。話さなきゃ分からないのは当たり前だけど、話してくれようとすることを受け入れる体制は整えていたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?