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血と家から考えるアイドリッシュセブン⑨(ネタバレ)

【アイナナ考察記事についてのお願い】
・「二次創作」としてお読みください。ストーリーの展開を保証するものではなく、公式やキャラクターを貶めようとするものではありません。
・アイナナに関するすべての情報を把握しているわけではありません。個人の妄想と願望を大いに含む、一解釈であることをご理解ください。

アイドリッシュセブン、6周年おめでとうございます。
ついに5部の配信も決定したとのことで、嬉しい反面、心がざわついている。心をなんとか落ち着かせるために、都志見先生による周年特別ストーリーを手掛かりとして、5部について少し考えていきたいと思う。
(すでに神々による考察が出ていると思うが、未読である。申し訳ない)

今回は久々に「家」「血」の問題に真っ向から突っ込んでいこうと思っている。「血と家から考える~」シリーズ未読の方は、①からお読みいただけると幸いである。(一年以上更新していなくて本当に申し訳ない)
※現在、6周年でアクセスが増えていることを踏まえて、古い記事を随時修正作業中。


いつも通り、大変なネタバレと妄想を含むため、苦手な方はUターンをお願いしたい。また、文章中の画像はすべて©アイドリッシュセブンより引用している。
今回は主に、御堂虎於、二階堂大和と八乙女楽、そして和泉一織について考えるつもりである。5部の展望についても少しふれていく。


1.十龍之介になれない御堂虎於

まずは、新マネージャー宇津木を迎えたZOOLから考えていきたい。
番組の企画で「子供のころの写真」を持ち寄るZOOL。ここで虎於は、ヒーローベルトを装着した写真を持ってくる。

虎於がヒーロー好きだったことは、「拮抗のクォーター」でも明かされ、正月イベントなどでも周囲に明かされているが、世間一般には広まっていない。
(詳細は、シリーズ⑦を参照いただきたい)

番組内でその写真を出すということは、虎於が周囲や「家」の期待に沿う形で抑圧・抹殺してきた、「本当に好きな物」を公表する行為か…と思われた。

だが違った。
あくまでも、「ウケる」から、、、ネタとして持ってきたのだという。

私はまたしてもここで、御堂虎於の根本的な問題が全く解決していないのだという認識を強くしてしまった。

この写真を見たトウマは、

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「下手な口実作んなくていいよ、いい写真だと思ったから持ってきたんだろ。船体ものとかヒーローもの、好きっていってたもんな」

と、本来の虎於を承認・容認する姿勢を見せる。
にもかかわらず虎於は

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「ただの計算と狙いだ」

と返す。
照れ隠しのような扱いにされていたが、私はそれは違うと思っている。

まず、虎於はなぜこの写真を持ってきたのか。もう一度確認しよう。
「最近学んだのさ、俺みたいな完璧人間は多少、崩しがあったくらいの方がウケるってな」
とのことだ。

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ここで思い出されるのは……そうだ、十龍之介である。

ホテル王でルックス抜群の十龍之介の「崩し」。それは、本当はエロくもなんともない純朴な青年であり、漁師の息子でセレブでもなんでもないことだ。
虎於は虎於なりに、十龍之介が二面性を抱えながらも、アイドルをしている理由を理解しようとしている(いまだ理解できていないが)。

その一環として、「自分の「崩し」」も出してみよう、、、とそう思ったのではないか。
あくまでも「崩し」であるのがポイントである。

十龍之介は、世間に公表してこそいないが、「本来の自分」をメンバーが認め、愛してくれているし、自分自身も素の自分を嫌悪したり抑圧したりしていない。
虎於はどうか。素の彼を理解しつつあるトウマに対してだって「計算と狙いだ」と、話題を逸らしてしまったではないか。

つまり虎於自身が、「本来の自分」を理解できていないし、愛することができていないのである。あくまでも「家」優先なのだ。
だから、御堂虎於は、十龍之介になれない

彼がアイドルを続けていくのであれば、「自分自身を理解し、認める」作業、「本来の自分を否定する「家」との決別」が必要である。そのためにも、ZOOLのメンバー全員が、今回のトウマのように「「家」とは関係なく、虎於が好きだよ」と言い続けなければいけない。
そうすればきっと、虎於自身も、自分を好きになれるだろう。

だが不穏分子もある。新マネージャー宇津木である。
写真の一件も「ウケると思いますよ(家とのギャップで)」という、大変ライトなテンションで受け流している。担当するアイドルに深入りしない姿勢は、「ツクモ」感がかなりある。月雲了とは性質がかなりちがうが、これはこれで今後のZOOLが心配だ。

心配といえば、今回唯一虎於の核心に触れそうになっていたトウマ自身の「家」問題が、ここにきても全くわからないことだ。虎於が「家」や両親に向き合う時に、トウマ自身の親の問題も浮上してきそうで、心臓が痛い。


2.羨み合う二階堂大和とと八乙女楽

私が3部からずっと待っていた、22歳組の直接対決の気配を感じて息をのんだ。
ついに、ついに5部ではこれが来てしまうのかもしれない。

今回は、「生い立ちに共通点が多いから、写真がかぶらないようにしよう」という名目で、二階堂大和と八乙女楽が、互いの写真を選び合うという展開であった。

これまで何度も言ってきたのだが、年齢以外でも、二階堂大和と八乙女楽は共通点だったり、シンメトリーになっている部分が多いのだ。
私が最も重要だと思っているのは、「父の恩恵を受けて、仕事(俳優/アイドル)の才能を獲得している」「仕事を通して、父に認められてい・超えたいと考えている」点である。
※詳細は過去記事⑤⑥を参照いただきたい

ただし、もちろん違うところも当然ある。
それは、3部の二階堂大和打ち明け話のくだりで、顕著である。

何も言わない父親に苛立ちつつも、諦めたと告白する大和に対して、八乙女楽は

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「なんで親父を殴りにいかなかった。なんで文句を言わなかったんだ」

と言っている。
似たようなことを和泉三月も言っている。

この「親父を殴りに行く」という発想ができるか否かという点は、かなり大きな違いになっていることを思い知らされる。

「殴りに行く」ということは、たとえ親を殴ったとしても、殺されたり捨てられたりしないという確信があるからだ。
八乙女楽の場合、それは「純粋な愛情」ではなく、「八乙女楽の商品価値を父が認めているから」という発想だったのだろうが、とにかく大切に扱われるという自信はあっただろう。何より、戸籍上も血縁上も間違いなく「親だ」という確信がある。だから殴りに行くという発想になるのだ。
(三月の場合は、純粋に親の愛情を感じてのことだろう。それに便乗しない和泉一織が不穏である

二階堂大和の場合は、過多とも言える愛情とお金はあった。ただし、それを得るための根拠となる「千葉志津男の子供である」という確信は、「半分しかない」。血縁では確かに親子だ。ただし戸籍上では「親子ではない」。書類上はそれがなくても、父本人から事情説明があり「それでも私は息子としてあなたを愛している」と言われれば、補填できたのだろうが、千葉は「何も言わなかった」のだ。
この確信が欠けているから、二階堂大和は「親父を殴りにいけない」のだ。


さて、この二人の違いが別の形で出てきたのが、今回の周年ストーリーである。
互いに父に「溺愛」されていたことをやんわり否定しつつ、その性質の違いに言及している。

二階堂大和は八乙女楽親子に対して

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厳しいけど、肝心なことは何も言わないで甘やかすだけのやつよりカッコいい
と羨んでいる。

八乙女楽は

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心配して、駆け寄って、抱き起してくれたらって、思わなかったわけじゃないが…実際にされてたら俺も腹を立てたんだろうな。うるさい、一人で大丈夫だった
と言っている。
羨む一方で、八乙女宗助の教育方針によって「多少転んでも立ち上がる力が付いた」と納得している点が大和とは違う。

これを、現在の彼らの「スキル」に置き換えて考えてみよう。
八乙女楽は、宗助に認められたい一心で、自分の意思とは関係なくアイドルスキルを学んできた。しかし、野良となった今となっては「そこで培ったものがあるから、野良になっても立ち上がれた」ということになる。

二階堂大和はといえば、まだそこまではいっていないようだ。
彼の卓越した演技力は、間違いなく父志津男から継承したものだ。大和はその演技力で、アイナナの危機を救い、グループに貢献してきた。だったら「血」により、その演技力を与えてくれた志津男を認めてもいいように思うが、これまでそういった言動は見られない。

八乙女楽が父から与えられたものを認めつつあるのは、間違いなく父の庇護下を離れたからであろう。
二階堂大和が同じようになるのは、徹頭徹尾自分の力で、自分の努力で、自分のために、千葉志津男を凌駕するような仕事をしたときだろう。4部で言われていた「水風呂ではない仕事」、アレである。

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こう考えた時に、八乙女楽が「三日月狼」の月舘を演じることは大きな意味があろう。
本来なら、千葉志津男の「血」を受け継いでいる二階堂大和の役どころである。それこそ、オーディションなどなしに、父と同じような演技ができただろう。
ところが、今回月舘を演じるのは、努力と実力でオーディションを突破した、家も血もつながらない、八乙女楽なのである。もしも大和がこの舞台にゲスト出演などしようものなら、大変な衝撃を受けることであろう。そしてここではじめて、二階堂大和の「一生懸命」が発揮され、水風呂は熱湯風呂になるのだと思うのである。

5部ではなんとしてでも、「三日月狼」がらみで、二階堂大和と八乙女楽の直接対決を見たい。私はそう願っている。


3.和泉一織の暴走と、光と闇の楽曲

さて、5部において、八乙女楽の存在によって二階堂大和が「一生懸命」をやるのだと仮定して話を進めよう。
もちろんそれは、アイドリッシュセブン外の活動である。
個人の俳優業で「一生懸命」をしなければいけない状況に置いて、二階堂大和がグループ事情にまで細かに気を配れる余裕を持てるようには思えない。

リーダーの不在。アイナナはその時どうなるのか。

思い出しておきたいのは、二階堂大和だけが、「和泉一織のプロデュース」を知っているということだ。
それは裏返せば、和泉一織の最後のストッパーになっているということになる。

それが緩んだとき、何が起こるのか。
和泉一織の暴走だと私は思う。

もちろん、それは七瀬陸への極端なコントロール、そしてゼロ化に拍車をかけることにつながる。
※このあたりは4部考察を参照いただきたい



今回も、ラビッティの不良品が回収されていたり、幼少期の七瀬陸が九条天をコントロールしていたり…と不穏なパーツがちりばめられていた。

ここからは完全に妄想だが、2点ほど気になることを確認しておこう。

①素直な笑顔が消えた理由
九条天に「どうして(幼少期と違って)仏頂面になったの?」と聞かれ、一織自身も、幼少期の素直な笑顔に驚いている。

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どうして笑顔が消えたのだろうか。
ここは結構重要なポイントだと思っている。私は一織自身が抱える「家」の問題に気が付いてしまったから…という説を推しているが、どうだろうか。

②「Midnight」
三月が写真の中でしていた、ゼロのジャケット写真のパロディ。楽曲名が明記されていたことは意外と重要だと思うのである。
タイトルは「Midniht」

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単純に考えれば、

真夜中=0時(ゼロ)=「Midnight」

である。
そしてこの世にはもうひとつ0時がある。お昼の12時だ。

正午=0時(ゼロ)=「midday」

なんてことになるだろうか。
だとすれば後者は、もしかするとゼロが春樹に依頼し、現在は九条が持っている楽曲かもしれない。

真夜中は真っ暗で何も見えない、白昼は逆に眩しくて何も見えない。


アイドルは真夜中でもスポットライトを浴びて、人々はその姿を見ることができる。
でも、スポットライトが明るすぎれば、眩しくて実体が見えなくなり、人々は離れていく。

なんともギクッとするタイトルであるように思う…
私は以前から本作のラストは、七瀬陸と九条天の歌唱によって締めくくられると考えているのだが(参考記事)この対照的な二曲によってアイドル界(およびゼロ)が鎮魂されるのであれば、激熱なストーリーだな…と思ったりした。
(そしてその二人によって和泉一織の笑顔が戻ってくるのであれば最高かもしれない…)

光と闇の楽曲により、ようやくゼロレクイエムは成る…ということだろうか…


またしても少ない燃料で、ひどい妄想をしてしまった。
我ながら妄想が過ぎると思うし、考えすぎだとわかっているのだが、久々の新情報供給だったため、かなり滾ってしまった。反省している。
五部開始までにはもう少し心を落ち着かせて、あくまでも冷静に新ストーリーを受け止めたいが…どうだろう、難しいかもしれない。

いずれにしても、秋の大型イベント、お正月ストーリー、5部、アイナナライブ…と大忙しな秋冬になりそうである。多くのマネージャーのみなさんと一緒に、6年目のアイナナを存分に楽しみたいと思っている。

長文にお付き合いいただきありがとうございました!

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