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【SK∞~7話考察】置いていく、置いていかれる(ネタバレ)


6話の休憩回を挟み、7話。思った通りのしんどさであった。
3話から危惧していたランガと暦のすれ違いが、はっきと示されてしまったためである。



7話を視聴してから6話に戻ると、すでに6話から、「置いていく」者と、「置いて行かれる」者、がぼんやりと暗示されていたことに気が付く。そのあたりを確認しながら、今回はアダム(愛之助)と虎次郎・薫、そして菊池忠について考えてみたい。
(ランガと暦がしんどすぎるから、逃げているだけだろうというご指摘は甘んじて受けたい)

まだ7話、折り返し地点を少し過ぎたところであり、わからないところも多い。今後の展開について何ら保証をするものではない、ただの妄想であることをお許しいただきたい。
7話までのストーリーに関して大変なネタバレをする予定である(※8話についても追記している(2/28))。苦手な方はUターンをお願いしたい。なお、記事中の画像は全て、
©ボンズ・内海紘子/Project SK∞
からの引用である。

ちなみに、前回の記事を踏まえての考察となるため、未読の方はそちらを先に読んでいただけると、唐突感が薄まるかと思う。



1.光の中の孤独―置いて行かれるランガ


まず6話を確認しておこう。
この時からすでにあったのは、スケートの技術で「ランガに置いて行かれたくない」暦の姿であった。温泉を目指して行われたビーフでは、暦だけが出遅れ、「置いて行かれて」いる。そこへ、先を走っていたランガが「置いて行ってごめん」と戻ってくるのであった。

このシーンを見て、「この二人なら、きっと大丈夫…」と思わせておいての、7話だった。

つらいので多くはここに書かないが、暦は、周囲の声を聴き、自己研鑽もした上で、ランガに技術で及ばない自分を確認していってしまう。そして、ランガが「アダムと滑らない」という約束を破って、「わくわくするアダムとの滑り」を優先すると言い出したことで、

「俺とお前じゃもう、つりあわねぇんだよ」

という決定的な考えに、暦は至ってしまう。あまりにも切ないサブタイトル回収である。

さて、この文脈からすると、「置いて行かれる」のは暦であるように見える。が、実は逆ではないかと私は思うのである。

7話Bパートのランガは、Sで独走状態になっており、危険なまでのスピードを出している。それを虎次郎に制止されても、「何が?」という状態。
ランガの目には、自分の目の前を走るアダムの幻影しか映っていない。
周囲が見えていない。

つまり一人で滑っているのだ。

ランガをスケートに導き、共に滑ってきた暦が離れることで、この傾向は益々強まるだろう。それを表象するかのように、暦と離れたランガは、光の下でひとりたたずむ

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確かに暦はSのルーキーとして、脚光を浴びるだろう。しかしそこには誰もいない。誰も一緒に滑らない。
光の中に置き去りにされるのは、むしろランガなのではないかと思うのだ。

そしてその孤独な在り方は、奇しくもアダムに通じている。アダムもまた、Sでは絶対的存在。誰も彼の素顔を知らない(知っていても、ジョーとチェリーは黙っている)。それゆえに孤独だ。

Sで対峙する二人がライトアップされる場面は、あたかもそのことを示しているようでもあった。

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ではランガとアダムなら、孤独を癒し合えるのか…?少なくともアダムはそう思っているのだろうが、果たしてランガはどうであろうか。彼がふと振り返ったとき、あたたかい光をまとった暦が、彼の視界に再び映れば良いのだが。


2.置いて行かれる薫、一人にさせない虎次郎


置いていく、置いて行かれる
、という観点から、いわゆる大人組の3名についても見ていこう。

7話で我々に衝撃を与えた、高校生時代の彼ら(ピアス…!)。

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制服から察するに、愛之助のみ私学、薫と虎次郎は公立、という感じだろうか。同学年かどうかは微妙なところだ。

そして、愛之助が高校時代
・突然スケートのやり方を変えた
・「お前らとのお遊び(スケート)はやめる」と突然言い出した
・突然渡米した
ということがわかった。

スケートをやめる云々については後述するが、とにかく、それまでは虎次郎・薫と「一緒に・同じように」スケートを楽しんでいたことは間違いない。

そして突然の渡米である。大学進学のタイミングなのか、高校在学中なのかはまだわからないが、父親の意向でそうなったことは明らかである。愛之助自身の意向ではない。恐らくそれは、政治家になって家督を継ぐために必要なプロセスなのだ。愛之助の叔母たちから見えるのは、家に見合わないものを排除する雰囲気。愛之助には選択肢がなかった。

このように見ていくと、薫と虎次郎が「置いて行かれた」形である。
薫はここで「もう一度変わればいい」と言っており、また、5話の書道イベントでは「人はだれしも過ちを犯します。しかし、取り戻すことができるはずです」と発言している。

明らかに愛之助を意識してのことだろう。
変貌する前の愛之助を、薫は取り戻したいのだ。いかに薫が、愛之助渡米後にショックを受け、傷ついていたかが透けて見える。
それを、虎次郎は隣で見ていた。

イタリア料理の店を開いていることから考え、虎次郎は薫のそばを一度離れているようにも思う。だとしたら、薫は「置いて行かれる」経験を二回していることになる。愛之助に去られたあと、間髪入れず虎次郎に「置いて行かれた」のだとしたら、虎次郎に対しての態度がキツくなったのも納得がいく。「お前まで俺を置いていくのかよ!」ということである。

当然虎次郎は戻ってくるつもりであっただろう。そのことは6話からも透けて見える。

疑問を感じたのは私だけではないはずだ。なぜ虎次郎が、薫の出張先についてきているのかということを…

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彼はバカンスと言い張っていたが、結局は海で女性をナンパしただけであり、あらかじめ予定されていたバカンスとはいいがたい。

ではなぜ来たのか?

振り返れば、虎次郎と薫はことあるごとに、修学旅行や林間学校の話をしている。それはつまり、地元から離れる出来事に他ならない。地元から離れたところでも、二人は一緒にいたことになる。いや、離れたところだからこそ、寄り添っていたともいえるかもしれない。

6話に話を戻そう。
6話の舞台は宮古島。遠方とはいいがたいが、地元でないことは明らかだ。そこに薫が単独で出張した。恐らく泊りがけであり、虎次郎の店に立ち寄ることはできない。

虎次郎は、薫のそば近くを離れないために、バカンスだとごまかしてまで同行したのではないか。二度も「置いて行かれて傷ついた」薫のために、虎次郎はもう二度と、彼のそばを離れないと言うのではないか。
※8話追記→LAもパリも一緒に行ったというのだから、かなりのものである。


この「薫のそばを離れない」という姿勢、6話のビーフにおける虎次郎の行動にも少しにじみ出ている気がする。
二股に別れる道で、シャドウミヤランガが右に行くが、薫はカーラの判断で左に。虎次郎はその後ろにピッタリくっついて左に行く。

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もう少し前を見直すと、トップを走っていたはずの虎次郎は、あえてスピードを落として、カーブを過ぎたところで薫の後ろに回っている。
(8話で本気を出した虎次郎からすれば、この時トラップもないのに遅れをとるのは有り得ない)

薫を1人にしないために調整したのだとしたら…

ビーフは本気でやらないとつまらないと言った張本人は虎次郎だ。だとすると、薫をひとりにしない、置いていかないことに、ビーフ以上に大真面目だということだろう。
その大真面目を、女たらしや軽薄な態度でごまかしているのだとしたら…あまりの健気さに胸が締め付けられるではないか。

そんな虎次郎は、ついに8話で愛之助と対戦するようである。虎次郎が愛之助を「一発ぶん殴ってやりたい」のは、スケートに関することだけではないはずだ。薫を「置いて行った」こと…彼を傷つけたことへの落とし前をどうつけさせるのか、注目したい。


3.置き去りの愛之助―「犬」に込めた本当の思いは…


このままでは全部愛之助が悪いということになってしまいそうなので、最後に彼を擁護しておきたい。

愛之助が「お前たちとのお遊びは、もう卒業しないとな」と、薫・虎次郎を突き放した背景には、父親の存在があった。

父親に「こんなお遊びはもう卒業しろ」と言われ、ボードを焼かれたのだ。(1話で暦のボードが焼かれたのも、今となっては伏線のようでつらい)

もちろんそのことも愛之助にとっては引き金だったのだろうが、決定打となったのはおそらく、菊池忠の一言だったように思う。

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スケートをやめるように言う愛之助父に、反論するかのように声を上げた忠だったが、
「何か文句でもあるのか」と言われ
「いえ、私に意見はありません…」と引き下がってしまう。

愛之助が高校生の時点で、すでに車を運転しているような描写が見えることから、忠は少し年上であることがうかがえる。使用人の息子なのか、あるいは親戚の子供なのかはわからないが、格下の遊び相手として出入りしていたのだろう。

そして、愛之助の家族内だけであれば、スケートボードの存在など、愛之助に知らされるはずがない。

…愛之助にスケートを教えたのは忠なのではないか。

だとしたら、愛之助をスケートに導いた本人が、スケートを取り上げようとする父に追従してしまったことになる。


愛之助の絶望は計り知れない。
少し前で、いや、隣で、一緒にスケートの楽しさを分かち合っていたはずの忠に、切り捨てられ、置き去りにされたようなものである。

このように考えると、ことあるごとに愛之助が忠に言う、「犬」とは…「父親(=愛一郎」の犬のくせに…」ということになるのではないか

たとえ愛之助に従順なふりをして、命令通りに資料を作り、スケートの準備をし、Sの運営を手伝ったとしても、
所詮は、愛之助を見限って愛一郎のいいなりになる。愛一郎の命令だから愛之助に従っているだけ」だと…
少なくとも愛之助はそう思っているのではないか。

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反論せず追従するだけの忠…
愛之助が求めているのは、菊池忠の「本心」…ただそれだけなのかもしれない。
しかし、一度愛之助を突き放した忠は、罪悪感からなのか、愛之助に反論することも意見することもない。

それでもそば近くに忠を置き、ことあるごとに「」と呼び、自嘲する…
愛之助の抱える孤独は、海よりも深そうである。

その孤独を抱えながら、愛之助は帰国後にSを立ち上げたことになる。かつて奪われたスケートを取り戻すことは、とりあえずは叶っている。
しかしSでも彼は孤独だ。
かつて共に滑った虎次郎も薫も遠ざけ、一緒に滑る新人はつぶし、もちろん忠とも滑ることはない。
本当の愛之助」は、Sにひとり置き去りにされているということになるまいか…

愛之助がランガに惹かれたのは、ランガに、オリバー(=スノボの師)を失い、暦(=スケートの師であり仲間)を得た気配を感じたからなのだろうか。愛之助はランガを再び孤独に陥れることで、自分の孤独を癒そうとしているのかもしれない。
(もちろん、単純にランガという共に滑る相手を見つけた嬉しさもあるのだろうが)
そう考えれば、愛之助の奇行も、少々切なく思えてくるような気がするのである…

8話追記(ネタバレ注意)
愛之助がおば達に「愛のムチ」という名の虐待を受けていたことが明らかになった。その痛みこそが、愛之助が神道家に居場所があるという保証であり、愛のバロメーターであったことがわかる。

一方、忠とスケートを楽しむ間は、愛のムチなどなくても居場所があったのではないか。愛之助はそこで、「痛みを伴わない愛」を知ったはずだ。
しかしそれも、忠の「意見はない」発言で失われてしまった(と愛之助は思っている)。
その後愛之助がSでスケーターたちに無茶を求めて言ったのは、「忠の代わりを探していたから」に他ならない。しかしそれは容易に見つからず、条件に合わないスケーターには「愛のムチ」を与えた
忠の代わりなぞいないのだから、見つからなくて当然だ。しかも8話を見る限り、忠は相当うまい

忠が愛之助に辞めさせたいのは、Sでの愛のムチ活動なのだろう。スケートをやめさせたい訳ではあるまい。決勝トーナメントで愛之助と忠が一緒滑ることで、愛之助が「代わりが欲しかったのではなく、他ならぬ忠と一緒にスケートしたかったんだ」ということに気がつけば、あるいは……
忠、お願いだから愛之助を見捨てないで欲しい。

今回はあまり長く書くつもりはなかったのに、つい…

内海監督の作品は、登場キャラクターだれしもに何らかの救いがある、と私は信じている。現状では困った存在でしかない愛之助も、救われると信じている。
そのためにも、まずは7話では虎次郎に、そしてそれ以降は菊池忠に、一肌脱いでもらうしかないな…という心境である(他意はない)。


それにしても、ランガがどんどん孤立の道を歩んでしまいそうで心配である。
何度も言っているが、ランガとの比較ではなく、暦だけの才能があると思うのだ…思い出してほしい、暦が作ったボードがなければ、ランガはこんなに滑れるようにはならなかったのだ。
7話でも、ランガはとても愛おしそうに、慈しむように、自分のボードを手入れしているではないか。そこに暦とランガの関係の光明が見える気がするのだが…どうだろうか。
とにかくみんな、幸せになってほしい。

長文にお付き合いいただきありがとうございました!

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