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鳩の顔した蛇であるなら

わたしは高校卒業式の答辞の、ゴーストライターをしていました。
みんな知ってたからゴーストじゃないか。とにかく答辞職人でした。

中高一貫校で、そこへの愛というのはもう語りつくせない。
思い出したくないほど恥ずかしいことが厭というほど詰まっていても、まあたぶん生涯忘れられないでしょう。そこで会ったひとや、言葉にしてしまえば凡庸な日々が、わたしは大好きでした。(今日はじぶん語りが続きます)

だから6年間をひしと抱きしめて、万感を込めて、じつに自由に、友人2名と原稿を書いたのです。楽しかったな。通り一遍のこと書いたって仕方ないんだから、かつてないぐらい文学的&ロックに書こうぜという感じでノリノリで進めました。
ところが、満を持して出した初稿が「全面書き直し」を食らいます。大事件ですよもう。

「事実の羅列で気持ちが伝わらない」「謙虚さがない」etc.

えっっっ、これわたしたちの卒業式なのに?!!なんでこんなこと言われなきゃいけないんだっけ?!みたいな。怒り呆れ悲しみ。

そもそもこれを書くという時点で怒られそうだなと思ったのですが、これは学校のネガティブキャンペーンではありません。今言ったように、わたしはわたしの高校と高校時代を愛してやみませんし、今年の成人式の同窓会出席率90%ということからもわかるようにみんな母校が大好きです。どこにだってこのテの衝突はあるし、これから、こんなことはいくらだって起こる。でもあのとき、わたしはとても不器用でした。ただ、読み方によっては色んな人の名誉にかかわる話になるので詳細はぼかしつつ書きますね。

たしかに、初稿は今読み返しても、なんというか荒ぶった文章でした。これをみんなの前で読み上げるわけにはいかないなというレベルで恥ずかしい。「生徒一般」ではなく「私」ないし「友人」の色が出すぎているし、自己陶酔気味。陶酔を通り越してもう泥酔。耳で聞いたら分かりづらいだろうなという言葉もあるし。

でもさ、あのさあのさ。言わせてもらうと、
卒業式で「○○がたのしかった」「嬉しかった」とか言われた日にはどっ白けですよ。涙引っこんじゃうよ。小学校か。全員が楽しい行事なんてあるもんか。気持ち悪いよそんな学校。
あと謙虚さって押し付けられるもんじゃないと思う。謙虚であることは大事だけど、うちの生徒のよさはそこじゃない。良くも悪くもとっても生意気。何度も部活顧問とバトったこともいい思い出なの。

変に平板化されては困ります。
当日卒業生、ピンときません。
在校生、寝ちゃいます。

この学年らしく書けって言ったの誰だ。「内容自由」ってなによ?!

とかまあちょっと、もう、指摘が穴だらけだったんで呆れかえってしいまいました、ええ。でも、それを指摘してきた機関のOKが出ないと、わたしたちの言葉が日の目を見ることはないわけです。

はじめは直談判しようかとも思ったんですが、「対話」ってそもそも、お互い「聞くぞ」って思ってないとできないわけで。あぁこれは、無理かも、と思いました。わたしもちゃんと相手の話を聞ける自信がない。周りの人が悪化するよと止めてくれたというのもある。感謝。

でも、言いたいことは言いたいし、黙って小学生作文を出すわけにいかないんですこっちだって。
だから却下された文字列とは思い切ってお別れして、内容の核の部分は変えずに出したいねという話に。
それで友人の助言というか悪知恵をかりて、「よく読めばあんまり変わっていないけど、要求に従ったように見える」形をととのえて出し、無事卒業式で読まれました。



・・・これは妥協ではない。そう思わなければやっていられなかったし、言い聞かせてきました。いろんなひとが「よかった」と言ってくれたし、事あるごとに「あの文章はよかった」と喜んでくれる先生や友達もいます。

でも、やっぱりどこか少し引っかかっていた部分があって、それはおそらく「私たちは何かに敗北したんじゃないか」という気持ち。なんというか、向こう側には「ヤレヤレ、やっと自分の言うとおりにしたか」とおもわれたわけでしょう???
あるいは、いまだにこんなことを考えてはモヤついてしまうじぶんの真面目さ青さがイヤになる、どのように捉えたら、もうすこし賢く生きていけるだろう?という問いでもありました。

理不尽はあらゆるところにあります。
本当に大切なことなら人格を賭して闘わねばならぬこともあります。でもいちいち噛みつく時間も体力もない、「折り合いをつける」のもよりよく生きる技法です。


***

デカルトさんにシンパシー

大学のキリスト教概論の授業がめちゃくちゃ面白いのですが。

「批判的思考=critical thinking」についてのときに、「われ思う、ゆえに我あり」で有名なデカルトの話がでてきました。デカルトは著書『方法序説』の中で、目に見えるあらゆるものを疑えと説きます。
音や色はもちろん、痛みも、夢の中の出来事でないという保証はどこにもない。
2+3=5という数学上の命題すら、全人類が騙されている誤った事実かもしれない。
既成の学問は「もっともらしく見えるもの」にすぎない、確実なものなど何一つない。若きデカルトは自分の教養に対して疑問を持ち葛藤します。

ただ、ひとつだけ確かなのは「このように疑っているわたし」が今まさにいるということ。ここでかの有名なセリフが飛び出すわけですね。

しかし非難されている部分があって、それが上記の考えを敷衍して神の存在証明を行おうとしたこと。(ざっくりすぎてすみません)

それに対して、「全てを疑うとか言いながら、キリスト教を正当化しているではないか!もっともらしいことを言って、結局保身。時代に迎合しちゃってんじゃん」と。当時はキリスト教が絶対的な権威でしたから、それに逆らうことは社会的な死を意味します。じっさい、地動説を支持しつづけたブルーノという人は火あぶりになっています(『方法序説』の出る40年ほど前)。怖い。

だからキリスト教の否定から入ってはそもそも出版されないし、自分の考えを多くの人に伝えるということができないのです。だからおそらくデカルトは、キリスト教の神を揺るがぬ存在とした。本当にそう思っていたかどうかはわかりませんけど。

じぶんが世間に訴えかけたいことを広めるために、仕方なくキリスト教(の神)は疑わないというスタンスをとる。


これは妥協なのでしょうか?
デカルトは、結局のところ権力の前に跪いたみじめな哲学者、なのでしょうか?


この話が、恐れ多くも(いや本当に図々しいな)わたしのなかで先の「答辞事件」と結びつきました。
権力に従わざるを得なかったあの日。目的を達するためには、とりあえず言われたことに従うしかなかった。
でもこれは妥協じゃないと思いたい、
ほかにどういう言葉で表すのが適切か分からないけど、とにかく折れたというよりはカモフラージュしただけだとおもいます、とコメントしてみました。

それに先生は公開のコメントでこう返してくださいました。「(略)ぜひとも知ってもらいたい。理想を掲げ続けることの大事さと、それを実現するためのしたたかさを。それはね、『鳩のように素直に、蛇のように賢く』というイエスの言葉に結晶しています。鳩だけじゃだめなんだよ。蛇だけでもだめだし」。


社会に出ても、きみたちのような社会への理想や、現状への批判的な眼を持つ人間は疎まれるかもしれない。
社会人1年目から社会の理想ばかり掲げても仕方ないからね。残念ながら、会社じゃきみたちの描く青写真に賛同して、一緒に行動してくれる人は多くないかもしれない。
だからはじめのうちは、この世の価値観にまみれなさい。とことん蛇になりなさい。
でも、つねに理想を描くこと、現状を批判的にみることを忘れてはいけません。偉くなったときに、あるいは力をつけて外に飛び出した後に、おもいっきりおやりなさい。


・・・・そっか。
鳩の顔して蛇であればいいし、蛇の顔した鳩であればいい。なにを成し遂げたいかの核をさだめ、それをぶらさずに、あとは賢くやる。鳩心をわすれない蛇。たぶんそれが、反骨精神というものだ。

いままで、こういうセンスがなくてぶつかったことが何度もありました。そのたびに、じぶんガキだなとおもってきました。それは折れるということが妥協であり、負けだとおもっていたから。

高校時代のわだかまりを溶かしてくれたこの言葉が、今日からはじまる20歳のテーマになりそうです。鳩のように素直に、蛇のように賢く。
若いって、不格好。うれしいけど、恥ずかしい。ありがたくて、鬱陶しい。色んなことがすぐにわからなくなって、そのあいだに日々はめまぐるしく過ぎて行ってしまう。この混とんとした日々の内から紡ぎだす言葉や思考は、あとから振りかえれば恥ずかしさのふきだまりになるのは百も承知です。でもわたしは青くあり続けたい、でも蛇のようにいることも忘れずに。

難しそうだけど、やってみます。




注:サムネイルは一緒に答辞を作った友人書です。何度見ても美しい……!

*不定期更新* 【最近よかったこと】東京03単独公演「ヤな覚悟」さいこうでした。オタク万歳