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「めちゃくちゃ愛想がいいひと」が考えていること(フィールドノート)

人と話したあと、とくにさまざまな意味で「この人は」、と思う人と話したあと、自分の言動について「独り反省会」をすることがよくある。

なんであんなこと言っちゃったんだ、キツかったかもしれない、こういえばよかった、なんて不愛想な返事をしてしまったんだろう、どうしてこんな薄いリアクションしかとれないんだろう、などとぐるぐるぐるぐる、大反省会を繰り広げる人は少なくないはずだ。
そのとき、小巧いことを言えなかった(プラスにできなかった)ことよりも、やってしまったこと、言ってしまったこと(マイナスにしてしまった)ことへの反省が殊更おおきいし恥ずかしい、ような気がする。日本人だけかと思ったら、イギリスでも同じような話を聞いた。「自由」がテーマの短いライフストーリーの前説としてそんな話が出たので、あぁコミュニケーションで気になるポイントも、それが精神的な自由と結びついているという発想も案外同じなんだなと思った。わたしの場合、反応が薄かったかもしれない、というのと、もっと相手の話に耳を傾ければよかった、と思うことが多い。なぜなら、当たり前だが人は自分が気持ちよく話せない相手とはあまり話したくないからだ。わたしは特別多くの人と友達になりたい(なれる)とは思わないが、友達になることができた少数の人には、こいつと話したい、と思われたい。思わせたい。どうやったら、愛想よくいられるだろうか。また話したいと思ってもらえるだろうか。

人の魅力は愛想だけではない、ってのは十分わかっている。わたし自身、どっちかというと愛想が悪くて陰があるくらいの人は好きだ。会話の中でこだわりやコンプレックスが見え隠れするとき、あるいはこの人の応答、変だなぁズレてんなあと思ったとき、その人のこともっとめっちゃ知りたい、と思う。

でも、だからこそ、常に愛想よくいるってどうやってやるんだろう?という謎は日々深まっている。

不愛想をひいきしておいて矛盾しているようだが、愛想がいいというのは、まことに素敵なことだ。おはようと言ってにっこりおはようと返ってきたら最高だし、いらっしゃいませーに対して(ペコッ)てしてくれる人には思いっきりサービスしたくなる。というのは夜が来たら朝になるくらい当たり前のことよ。

この子の応答はわたしがみる限りいつも完璧に愛想がいい、というともだちが一人いる。名をMという。べらぼうにテンションが高いとか、よく喋るというわけではないのに、いつも機嫌が良くて、友達をものすごいスピードで作る。彼女の引力には逆らえない。なんでも気持ちよく話させてくれるから、嬉しかったことも大変だったことも、その日あったことは全部話してしまいたくなるような人だ。

最初のうちは、失礼ながらただ努めて明るく振るまっているのかな?と思っていた。そういう人には時々出会うし、まだ知り合って間もないから、わたしが「外」の人だから、いつでも愛想よくいてくれるのではないか、と。つまり世間的には八方美人と呼ばれるまことに人間的な現象で、その人のSNS的な明るさを見ているだけに過ぎないのではないか、つまりもうすぐ嫌な(というより普通な)部分も見えてくるのだろうなどと思っていた。

違った。甘かった。わたしは段々と彼女の狂気的な機嫌のよさが張りぼてでないことに気づき始める。彼女の「八方美人」は職人技であり、寮でまる2年同じ空間に暮らそうが、将来のことについて話そうが、授業の課題がいかに大変かということを熱弁しようが、先刻おもいついたギャグを披露しようが、なにをしても仮面がはがれることはなかった(この時点で、わたしが彼女にあらゆる種類の話をしてしまっていることがわかる)。生まれ持ってか後天的にかわからないが、彼女は意図的に「いい人」を演じているのではないようだった。彼女との会話は一分の隙もなく快であるし、久々に会っても「この人はわたしのことを好きでいてくれる」と感じさせずにはおかない(錯覚であったとしても)。「話しかけちゃいけなさそうなとき」も、わたしが知る限りにおいて、ない。

しかしわたしは疑り深い。というより、自分の愚かで限定的な思考世界を出ることができないため、この「完璧さ」にはなにか合理的な理由が欲しくなってしまう。だってあまりに狂気的なのだ。たいがいの人間は、他者を不快にしかねない要素をいくつか抱えて生きている。思考、人格、言動、人はみな醜い。わたしはその歪さや偏りが好きだから、社会学が楽しいのだけど。だからわたしは、いや、いくらなんでも「これ答えんのめんどくせぇ」とか「コイツ嫌い」と思うことの一度や二度あるのではないか、実は夜な夜な藁人形を打っているのではないか、ストレス発散のためにコーヒーを死ぬほど飲んでいるのではないか、などと邪推を繰り広げるが、どうやらそういうことでもないらしいのだ。

彼女のバチボコに明るい世界観から繰り出される言葉に、ときどき目を潰しているわたし(沼の底在住)であるが、そんなMには羨ましさをはるか通り越して、人としての興味を禁じ得ない。彼女はいかにして一緒にいる人を快適にさせるコミュニケーションを体現するのか?人と会うときに何を考えている?会話のなにが「この人はわたしを好きでいてくれる」と感じさせるのか?
気になることは、調査すればいい。キッチンで洗い物をしながらMの思考回路に興味がある、というようなことを言ったら、調査をさせてくれることになった。

水曜日のダウンタウンの「説」と、論文になる社会学調査の間くらいの濃度でやってみる。ちなみに水ダウはとても味わい深い「説」を時々出す。わたしが一番好きなのは「ボックスティッシュ向けられたら、特に必要じゃなくてもとりあえず1枚取っちゃう説」だ。

さて、方法としては、彼女のライフヒストリーや人間観の聞き取りである。とはいえ、中身のない自分語りや個人の内輪の話を臆面もなく垂れ流すタイプの語りを日ごろから目の敵にしているわたしにとって、インタビューの文字化は難題だ。しかし、じっくりと時間をかけて聞き取られ、書き取られた個人の生活史は大好きである。そこには明白な違いがあるはずで、少しでも生活史的な趣を湛えた記録にしたい・・・・・。そこで彼女の話を4時間半ほど聞かせてもらって(M本当にありがとう)、「これは敵わないな」と思ったポイントについて、わたし自身との比較をしながら列挙していきたいと思う。しかし話を聞いて非常に興味深く思い同時に反省したのは、わたしが「コミュニケーションの達人だ」と思っていたM自身、その方法しかできないということに窮屈さと苦しさを感じてもいたという事実だった。インタビュアーが時々喋りすぎているのはご容赦いただきたい。

なお、友人Mには①noteに投稿すること ②名前は伏せるが、わたしが実名で書いている以上、共通の知り合いには誰のことかわかってしまう可能性が高いこと をインタビュー前に伝えて了承をもらい、投稿前の原稿をチェックしていただいた。

①観察眼が鋭いということの意味

——このインタビューしたいと言われた時、どう思った?
太陽みたいとか、ひまわりみたいとか、パイナップルみたいって言ってくれる方が多いんだけど、自分ではかなり不思議。がんばって明るくしようみたいなことは思ってないんだよね。でも、自分でもなんで自分がこういう人格でこういうふうに言われるのかわからないから、本当やりたいって思ったよ。

——そっか。ちなみにわたしは太陽とかひまわりみたいな表象を使われたことはないんだけど(笑)それがいいとか悪いとかではなくて、わたしとMの違いを挙げるとしたら何だと思う?
まおこはすごくさ、本たくさん読んで、話すときも論理的で話がシュッて入ってくるし言ってることがよくわかる。でもさ(自分は)ふわふわしてて、ふにゃふにゃで……うーん、なんとなく分かると思うんだけど、そういうのが、友達とか家族は「芸術的だね」とか「アーティストっぽい」とか言って褒めてくれるんだけど、本当ははまおこみたいに話したいなと思ったり、心からかっこいいなと思ったりする。ほんとはそうやって話したいの……だからそこは本当に違うなって思う。

——あれれ、すごい褒めてもらっちゃって(笑)違いはって言われた時に、真っ先に相手を主語にしていい所から話し出すってのもすごくMっぽいなと思うんだけど。〔中略〕逆にわたしよりMが得意な部分ってどこだと思う?全く気遣わなくていいからね。
まおこが色んな学問に、法とか文学とかいろいろ詳しいことを踏まえて言うよ? Mは全く法とかも知らないし、知識も全然ないんだけど、全く知らなくても話をちょっと聞きかじると面白いと思ったり、ワクワクをすぐキャッチするかもしれない。同じ授業を受けててもつまんないって言ってる子の横で一人すごいワクワクして、醸造って面白いとか海って面白いとか、空とか雲の動きって面白いとか。政治でも哲学とかでも少し面白いことを……こういうのが裏にあってねぇ、みたいなストーリーを伝えられるとすぐわくわくするし何でも好きになっちゃう。

——いやわたし知識は全然ないけどね(笑)ちなみにその、最初に面白いなと思うとか惹かれるきっかけっていうのは人の話が多い?
人の話は多いかもしれない。でも人の話に限らず、道端にちっちゃいお花が咲いてるのをみたり〔中略〕自然とかの中にいる時に、あとはお互いのコミュニケーションから、すごいワーッていろいろもらうな。

——うん。何か面白いなって思うのにいろんなチャンネルがあるじゃない。本だったり映画だったり音楽とか。その中で人の話と自然ていうのが大きいって面白いね。わたしは活字が得意だから読んだものから影響を一番受ける。Mは人とか自然をメディアとしてるってことだけど、五感で言うと耳?
耳は普通かな。それよりすごい目からの情報が……一番大きいな。それで悩むこともある。素敵なこともキャッチできるけど、人の表情とか少しの変化を読んじゃって、見なくていいこともすごく見えてしまう。表情読んで、これを今言ったらこの人こういう反応をするから、こういう優しい言葉をかけようとか。見なくていいものまで見て、頭のなかでこーーうやって〔頭の上でぐるぐるする動作〕考えているっていうことにこの夏気づいたんだよね。

——そう感じる場面が具体的にあった?
気づいたらすごく疲れていたりとか、自分ではそういう(努めて人の表情を読んでいる)つもりはないんだけれども、そういうの感じ始めてから、気づかないうちにすごく多くの情報をキャッチしてしまっているんだって(気づいた)。 だから最近もう、眼鏡を使って物理的に「Mさんそんなにたくさん見なくていいんだよ」「自分の見る範囲ここまででいいんだよ」っていうのを意識的にやろうと思って、眼鏡にしてみたり……。幸せとかそういうのキャッチたくさんできるぶん、見なくていいものを、ただ机にコップが置いてあるって見えてしまうのと同様に、人がこう考えているんだろうなとか。そういうのも見えてしまう〔後略〕。

——なるほどね。たぶんそれが観察眼とか自然に入ってきてしまう情報を脳の中でフル処理して見るから、なんというかベストな受け答えがたぶんできるんだろうね。

やはりコミュニケーションの上手い人は人の話をよく聞いているし、
・単純にべた褒めするのではなく、相手が褒められて嬉しいこと(時間や労力をかけていること=勝負していること)を抽出する
・まず相手を高めてから自分のことを話す
といった具体的な示唆を与えてくれている。

②搾取の構造

しかし、この時点でわたしは少し動揺していた。「コミュニケーション能力の高い人」とわたしが勝手にラベリングしていた彼女にも、一筋縄ではいかない生きにくさがあるという事実にふれたからだ。身体にあらわれた感情を読む能力に長けていることで、「最適解」が分かる。分かってしまう。Mにとって悪意や不満といった負の情報も一緒に受け取らざるを得ないことがしんどい、という。

そしてそれは、受け取りすぎてしまうということ以上に、端的に言えば「搾取」と闘っていることになるのではないか、という仮説が頭をよぎった。

——相手との会話ってさ、相手の前に自分を差し出す行為じゃない。 相手の求めてることが分かってそれに合わせてあげるのってすごく素晴らしい事だけど、なんていうか相手に消費を許すことになる、搾取を許すことになるよね。そういう風に思ったことはない?
そうそうそうそう。そう。自分では全く気付いてないんだけどつい最近同じことを言われて。気づかずにずっとそうやって生きてきたけど、夏に心理士をしてるおばあちゃんに同じことを言われたの。人に合わせないでいいんだよとか、がんばらなくていいんだよって言われるけど、自分は意見も言っているつもりだし、がんばって人の意見を聞いてるんじゃなくただ会話をしてるつもりだったんだけど。自分について深く考える時間があって、思ったこと言ってないのかなっていうことを意識しだした。なんでそういう風になったかわかんないけど……。

おばあちゃんに先を越されていたが、思ったよりも強い同意が返ってくる。だとすればこれはとても疲弊する話だと思う。Mは無意識レベルで、相手の求める反応の最適解をたたき出している。自分が気持ちよく話しているとき、相手を搾取していないか。わたしはこれまでMのやさしさを搾取していなかっただろうか。「誰かが居心地がいいときは、ほかの誰かが我慢しているとき」という言葉(by東京03飯塚さん)も脳裏を掠めた。この時点で「たくさんの人から愛される愛想の良い人はなにを考えているのか?」という自分の問いの設定の甘さに愕然とし、恥ずかしいと思った。聞き上手は、自分の思いもよらないところですり減っているかもしれないのだった。見たいものを見るために行うフィールド調査にならずにすんでよかった、と思いたい。

しかしある意味で彼女は、自分を消費されることに対して敏感だった。Mは人の愚痴や悪口を聞くのが苦手だし、自分では絶対に言わないという。怒り心頭したできごとについて聞き相手になるのは構わないが、誰でもいいから聞いてほしいことの矛先になるのは御免らしい。

わたしは愚痴や文句もコミュニケーションの一環だと思っている節がある。自分自身が人やものごとに対して好き嫌いが激しいため、自分に対しても同様に好き嫌いがあって当然だと思っている。が、Mは「嫌なところが見えたら、逃げ」るし「やっぱり自分の評価がさげられるのは怖いし、しっかり傷つく」「(嫌われたら)どうしようどうしよう、とパニックになる」という。わたしも人から嫌われるのが怖かったら、もうすこし社交的になれていたかもしれない。

それでも、Mはやはり「giving=贈与的」でいたいという。

〔高校時代アメリカに留学していて〕文化の壁とか乗り越えた時に、自分で一人で乗り越えたんじゃなくてアメリカの家族とか日本にいる家族とか友達に、めちゃめちゃ本当にみんなに支えられてるんだ、支えられて乗り越えたんだ、自分じゃ何もできなかったんだっていうことに気づいて、心からびっくりして。感謝しすぎて初めて泣いたくらい。本当にgratefulになって。帰ってきてからいつも、人にありがとうの気持ちがある。

このアメージンググレースの作曲秘話みたいな「贈与」の話はおもしろい。彼女は贈与を受けて贈与を返さざるを得なくなり、それを受けた周りの人間はMに贈与を返したくなり、それは友情という形をとる。親愛と贈与の深い結びつきを垣間見る。

③否定のメリハリ

——人から相談されることはよくある?
本当にある。気づいたらよく相談されてる。しばらく仲良くしてた子にMっていつも話し聞いてくれるよねって言われて、私はそんなに話聞いてたっけ? って思う。普通に会話してるつもりで、聞こう聞こうとはしてないんだけど、日本でも言われるし、[留学先]でも言われるからすごく不思議だなと思ってる……。

——(相談したくなる)気持ちはすごく分かるな。なんでだろう。安心感なのかな? なんか拒絶されなさそうだなっていう感じがMにはすごくある。ジャッジされなさそう。
拒絶されなさそうってのも、ああ、うん。みんな人の意見を聞いた時に小さい「いや」とかをパッを挟むことがあるけど、それはしないようにしてる。意見でも相談でも聞く時には一旦受けて、「うん」ってつける。「いや」っていうのよくみんな言うと思うんだけど。

——たしかに小さい「いや」って言ってるかも(笑)いやでも相談されて「いや」って言わないの難しいな。すごくいま自分が相談されることとの違いを感じたんだけど、わたしのところには何かクリティカルなことが欲しい時にくる人が多いかも。わたし(に相談してくれる人)はスタックしてて突破口を見つけたい系の人が多くて、かなり自分の脳みそをフル回転させて答えてる。でもでもとにかく包んで認めてほしい時、Mのところに行くんだと思う。例えば自分が後輩だったとしたら、先輩の相談先チャンネルの使い分けをそういう風にするかなって思った。
あー、なるほどあるね! そう、だからかもしれないけど、逆に自分の考えをずばっと言うと驚かれるんだよね。この前[場所]に行って、深い話、物質主義の話になって、自分が本当に考えていることを言ったらすごくびっくりされたっていう経験があって。「考えてるんだ」っていう。大学でさ、(大切にされている)対話を体現しようと思ったんだけど。いつもふわっとしているから、クリティカルな考えもあるんだっていう風にびっくりさせちゃって、びっくりされたことに自分も「はっ」ってなった。

この「小さな否定」をしないというのは、とても難しい。言っているそばからわたしが「いやでも」で文を始めていることにお気づきだろうか……笑。意見の比較的強いわたしは、向き合おうとすればするほど、話を闘わせたくなるし、そういうモードのときは、相手にも闘ってきてほしい。言いくるめ、言いくるめられ、論点を微妙にずらしながら進んでいくアウフヘーベンが大好きなのだ。お互い言外に「このひと、おもろいな」という雰囲気が出来た人とは、その後も長く続く。でもよく考えれば、闘いたくないモードの時間の方が長い。なるほどMは闘いたくないモードの人、つまり大半の人の大半の時間に愛される。

でも、エピソードで彼女が教えてくれたように「つっかかってこないキャラ」として理想化されるのもまた窮屈だ。なぜわたしたちは人にキャラを着せることを止められないのだろう。

④言い切らない力

ここまでの会話でも表れているのだが、わたしの分析体質に対する、Mの話の展開の巧さである。聞き取らねばというという気負いもあってか、「わたしってこうだよね」「Mってこうなんじゃない?」と仮説を投げまくる出しゃばりインタビュアーに対し、それを受けて(時に微妙にかわして)エピソードに持ち込んだり、話を発展させるのが巧い。分析はときに相手を黙らせるが、Mの話は具体的なようで抽象的であり、さらに言葉を重ねたくなるいいパスである。そのルーツを垣間見たのは、家族との会話について話していた時のことである。

うち少し変わっててこの家族は異常に、〔中略〕疑問に思ったこととか社会に対して「ん?」って思ったこととか、身近な会話の7, 8割くらいはそういうことについて(話している)。問題だけじゃなくてあさり貝の味噌汁食べてて、貝ってさどうやって殻が大きくなるんだろう? とかいう疑問からめちゃくちゃWHYが多い家族で、普段から議論というか「こう思う、こう思う」とかよく言う。考えることが多くて、そういう会話をする上で「多分こうかな?」みたいな。そういう(ことを話し合う)ベースがある。

——それは議論を戦わせるってよりも、みんなでアイディアをバンバン出していくみたいな?
そうそうそう。その中で誰も「いや、貝はそうやって出来てないよ」みたいな否定をね、あんまり聞いたことがない。調べたらこうだったよってのはあるけど。

——知識でマウント取らないんだね。例えば、お父さんとかお母さんとかはMよりも人生経験があって、もしかしたらその議題の中には両親にとっては明らかなものがあるかもしれないじゃない?でもそれは「いやそうじゃなくてそれはもう、こうなんだよ」って教えてくれるんじゃなくて、結構一緒に考えてくれるのかな。
そう一緒に考えるんだけど〔中略〕彼ら〔両親〕にとっての常識みたいなものが、Mにとっては「ん?」ってなることが多くて。だから(両親にとっては)そんなこと深く考えたことなかったっていう疑問が子供から来るって。たとえばパパに経営のことを訊くっていうのは、パパはもう全部わかっててMは全然わかってない。〔中略〕分からないなりにすごく素朴な疑問を投げるから、「それ普段考えたことなかった」みたいな、確かにそれどうなってんやろ、みたいなのがすごく多かったりとか。あとは自然のこととかアートとか食の面ではMが[大学]で学んだこととか考えてることを話すと、経済とか法とか文学とか別の視点からみるとこうだよっていうふうに対等に教えてくれたりとか。〔傾いた天秤のジェスチャー〕こうなってもおかしくないくらいの知識量なんだけど。

——それはMの問いを立てる力の強さなのかな?
こっちはわかんないことポンポン聞いてるだけなんだけど、鬱陶しがらずにたくさん真剣に考えて答えてくれるね。

ここには、コミュニケーションの極意が詰まっているように思う。幼児教育の文脈で「答えを簡単に与えたりネットで調べさせたりするのではなく親が一緒に考えてあげよう」みたいなものがあるが、大人同士の会話でもこれは効果的なのである。この時に思い出していたのは、いぜん養老孟子氏のインタビュー記事で読んだ「わかっていても言わない」という態度についてだった。

奇妙なことに、人間はできることはすべてやろうとする悪い癖があります。できることをやらないことのほうが、かえって難しい。でも、私はどこかに必ず留保を置いておくべきだと思います。たとえば、自分が10できることは6か7くらいにしておく。
昔の人はこの「できるのにやらない」という感覚を持っていました。もしくは、「わかっていても言わない」「わかっていても知らない振りをする」という暗黙の了解があった。昔はこのことを「とぼける」と言っていました。近頃は「トボけ老人」なんていませんよね。たとえば、大人にはわかり切っていることを子どもが一生懸命話しているときに、「えっ! そうなの?」とか言ってとぼける。

養老孟司「夏目漱石には『人間の根本問題』が宿っている」東洋経済オンライン、2018/10/21

議論の余地を残した曖昧な表現には、言葉を重ねたくなる。わたしは今まで、真面目に話すとは大人であろうが子供であろうが考えていることをまるっと共有することだと無意識に考えていたが、たしかに言い残して相手にパスを回した方がいいのかもしれない。

英語になったときに「わたしもしかして喋らせるの上手いかも」と錯覚するのは、英語話者がよく喋るということ以上に、たぶん日本語で言語化できることの8割くらいしか言えていないから、相手が補足説明したくなるというからくりなのかもしれない。



なぜ我々は友達という檻から逃れられないのか?

——友達ってどんな存在?
(自分から)友達をとったらゴマくらいしか残らない。

——友達と毎日会って疲れない?
友達からエネルギーをもらってるから、1人で何もしなかった、暇、っていう日を過ごすとむしろエネルギーが抜けていくのが丸見え〔後略〕。

——よく知らない人と話すコミュニケーションコストというか、精神的な負担みたいなものはないの?
(精神的負担は)worth itって思ってる。だから友達ももちろんだし、まだ全然会ったこともない世界に住んでる大人たち、たとえば職人さんとかに、とってもお会いしたい。全く自分が知らない世界を突き詰めた方の所に会いに行って話を伺うのは、すごくワクワクする。〔中略〕職人さんに会う時も、同年代の新しい友達に会う時も、同じワクワクかもしれない。もちろん(職人さんには)大きな尊敬の心があるけど、お話できる! っていう意味では同じ気持ちかもしれない。

友達が多いねって言ってもらえる立場にいて感じることは、それもそれで色々あるよっていう。この人が本当の友達、悩み絶対相談できるっていう存在が見つけられないっていうのは寂しかったりするよっていうのはある。〔中略〕たとえば自分が交通事故にあって、真っ先にこの子には連絡してほしいみたいな。深い友達っていうか。

たしかに友達は人生の喜びかもしれない。しかし我々は友達をほんとうに持っていると言えるのだろうか。友達の友達性を搾取していないだろうか。させていないだろうか。友達に「キャラクター」を着せて、窮屈な思いをさせていないだろうか。友達の少ない者は多い者の秘密を知りたがり、多い者は少ない者の関係性の深さを欲しがる。なぜ、こと若い我々は、「友達」という「鉄の檻」から逃れられないのだろうか。

この問題には、なぜ友達が多い方がいいという価値観が存在するのか、友達との親密な関係を外にアピールしたくなるのはなぜなのか、そのくせその人と自分を比べて惨めに感じたり、あるいは優れていると感じてひそかに優越感にひたるといった行為がなぜ生まれてしまうのかというような、多くの問いを孕む。あるいは異性と2人の影や、手や服などを写してSNSの「友達」にみせる「匂わせ」という行為も非常におもしろい自己呈示の形態だが、今回は置いておこう。

答えは一見簡単なように思える。しかし「人はみな人とのつながりのなかで生きていて、みな愛されたいからだ」というイケてない小論文みたいな安易な結論以上に、複雑な心象がここには折り畳まれているように思うのだ。

SNSが可能にした「ただ繋がっている」という状態、あるいは特定の宛先をもたない、プライベート状態(だれと、どこで、なにをしている)の開示は、目の前にいない友達とのコミュニケーションが手紙と電話だった時代にはありえなかった。そして繋がっている「友達」の「近況」を頻繁に目にしていたとしても、いやその変わっていく姿を見ていればこそ、まったく近況を知らないときよりもむしろ「遠くなった」と感じる。行動、ライフステージ、一緒にいる人、表現、すべてのへだたりが可視化されてしまうからだ。「この人、ずいぶん変わったな……次会ったとしても、話が合わないだろうな」という感覚。きっとSNSがなくて、ばったり会ったとしたら、互いの変わりように(あるいは変わらなさに)びっくりしつつも、近況報告はそれなりに盛り上がるのだろうな、そんな感覚もある。実際、会って話してみたらSNSに表れているほど変わってはいなかったことに、密かに安堵することもある。
テクノロジーが生み出したこのへだたりの可視化と「繋がっているのに遠く感じる」矛盾は、なんだか人びとをより寂しくさせ、繋がりへの過剰な期待と渇望を生み出しているようにわたしには思える。

高校時代、課題のために文豪の交友関係を洗っていたとき、たとえば太宰を支えた井伏、檀一雄、今官一なんかとの交流を読むにつけ「こういう友達関係憧れるわ・・・・!!」と思っていたことを思い出す。大人になって物事がすこし複雑になってからこそ、ダメな部分も、プライベートのあれこれも全て共有できる「親友」っていいなと。高校の友達をこれからも大事にしなきゃと思うとともに、お互いがあまりに変わってしまったらどうだろう、と怖くもなった。小学校低学年のとき毎日遊んでいた親友(途中で引っ越した)とは、SNSで繋がっていても、あの頃のように話せる自信はない。その実感から、親密な友人関係がやがて変質し、失われてしまうことをわたしは恐れた。恐れている。

しかし、わたしたちは孤独に憧れもする。孤独の深淵に沈吟するおのれ、誰にも理解されない自分像というのは、青いカタルシスの格好の餌である。結局人間はひとりなんだ、という結論めいたものには多くの人が一度は到達し、通過し、戻ってくる。

矛盾と弱さは人間の愛らしさでもあるが、なぜこうも一貫性がないのか。わたしの仮説では、「友達」という檻にわたしたちを閉じ込めているのは、自分を規定するものの弱さである。

わたしたちはみな、とても普通だ。呆れるくらいに凡庸だ。思いつくことも悩むことも怒ることも、ありふれたものだ。別に悪いことじゃない。バラエティで「キャラがない」と悩むかが屋と今田耕司の会話は的確だった。

加賀:「奇人だとは思われたくない、愛されたいみたいなのはあって。鶴瓶さんはすごい、いじられるというか愛されているという感じが……」
今田:「奇人やがな!!!お前ら全くわかってないな、こんなトップの人たちなんて……みなさんテレビで見せてる部分なんてあんなもんほんの一部よ、2割ぐらいの力でここまで来てる。あとの8割見せたらそらお前、収監されるで、何らかの施設に」

2021年11月26日放送「ザ・ベストワン」

社会から逸脱していない限り、われわれはどこまでも凡庸である。「アタシは変わってる」と思う人こそじつにナイーヴな感覚を隠し持っている。と思う。

自分ひとりの凡庸さはしかし、友達の存在がいくらか和らげてくれることがあるのだ。
関わる人の数だけ違う自分があって、関わる人の数だけ違う自分と出会いなおしている。それが止まると、自分の更新もいくらか鈍る。友達を単なる暇つぶしの相手としてではなく、もっと切実に考えるとき、思考はやはりそこに行きつく。でも、「なぜ我々は友達という『鉄の檻』から抜け出せないのか」という問いには十分に答えられていない。今日もその問いに答えを出せないまま、友達とパブに出かける。

インタビューの目的はMがどのように人に快を与え続けているかを探ることだった。それはいくらか果たされたが、新しい深淵なる問いが生じてしまった。だからこの長い長いnoteに、結論を出すことができない。ごめんなさい。
人との会話という、空気のような、いや時には薬であって毒にもなる、透明な湖のような泥沼があるだけです。読んでくださってありがとう。


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