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北海道に「自由な学校」を、つくろう!

NPOまおい学びのさと、代表理事の細田です。

昨年から、長年愛用したガラケーに別れを告げ、スマホとの付き合いが始まりました。

一緒に学校をつくろうと活動してくれているメンバーは、10~70代と幅広い年齢層の仲間です。

特に若いメンバーとの新たなコミュニケーション手段には、ついていくのに必死な時もありますが、現役の教員として、ひとりの人間として、新しいことに挑戦していくことは、新たな冒険のはじまりのようでワクワクもします。

私は、30年以上前から「北海道に自由な学校をつくりたい」と思い、現場で社会科の教員を続けてきました。

1条校として、正式に認可された自由な学校をつくりたいのです。

では、自由な教育とは?

以前、学校説明会にてお配りした資料から一部ご紹介いたします。

↓ ↓ ↓

■「教育に強制は要らない」パット・モンゴメリー

自由な教育とは、どのような教育なのか。

そもそも教育に強制は、いらない。それは幼い子どもが生命力・生きるエネルギーを漲らせて、何にでも興味を示し、疲れるまで遊ぶその姿に現れているのではないだろうか。

大人は、その生命力を信じ、生命の危険や余程の大けがの心配がない限り、見守り支援するだけでいいはずだ。

ところが、幼児期の生き生きとした遊びが、学校という場に入った途端、学習として統制され、時に強制されることもあるかもしれない。そして、評価されることにより萎縮し無味乾燥になり、子どもたちの中に優越感と劣等感、時には諦めを生んでしまう。自己肯定感が損なわれ、互いを認め合う気持ちが薄れていく。それは、いじめにも繋がっていく危険性を孕んでいる。だからこそ、学校は宿題もテスト(点数評価され格付けされること)もない、勉強を強制する大人(見守り支援はしても)もいない自由な生活・成長の場でなくてはならない。

「馬は水飲み場に連れていくことはできるけど、水を飲ませることはできない。」

とは、故・鈴木秀一 氏(北海道大学名誉教授)が使っていた譬えである。

無理に水を飲ませるために、

騙す

何かで釣る

ただ座して待つ

という手があるけれど、それでいいのか。

騙すのはもってのほか、何かで釣れば、その何かが目的になってしまう。

たとえば勉強させるのに小遣いで釣ったり、学習動機を入試の点数や学歴で釣ったりすれば、それが無ければ動機は失せる。

だから、大学入試が終わった途端に入試学力が急速に剥落し、学習動機を失う大学生の話をよく耳にするではないか。

「水が飲みたい」という欲求、学びの動機こそが原点なのではないか。

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次回は、「強制なしの教育などない?自由はきれいごと?」ということについて書きます^^

ちなみに、冒頭の写真は、先日の学校体験会での一コマです。

(撮影の際、マスクを外しました。)


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