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言語的非対称を実感

コロナ禍後の今、ぼくの周りには海外への移住を熱望するという知人が増えてきた。もともと知人なので、積極的に何かを勧めることもなく、ただ「見守る」だけとした。日本に移住したいと考えている知人には、ぼくの経験を汎用性のある一例として挙げることはできない。その理由は簡単。改革開放初期に恵まれていたわれわれのような世代は、時代の流れに乗っかったというカタチで、一人の力で実現することができたわけではないから、概ね大部分が時代の潮流にタイミングよくタップしたと言ってもいいかもしれない。

今から約40年前、ぼくは北京大学で日本語を学んだ。当初から学習する意欲もあまりなく、成績も悪かった。しかし、時代の必要性に応じて徐々に進んでいたことも確かにあった。七十年代の末、中国全土で突然上映された日本の映画『君よ、憤怒の河を渉れ』は、われわれに大きな影響を与えた。その映画で最も衝撃を受けたのは、主人公の女性が馬上で逃亡犯に声高く叫んだ「あたしは共犯者よ」というセリフだった。

中国語訳名は「追捕」という。当時の流行語にもなった。

実際、このセリフを初めて聞いたのは、日本にきてからビデオをみたときだった。ぼくにとって「言語的非対称」という瞬間を体感した時にもなった。もちろん、「共犯者」という音声の響きには、半分が中国語、半分が日本語だった。この場合に限っていえば、中国語のほうは、インパクトが物凄く強かった。

「言語的非対称」とは、ただ単に言語を理解するだけでなく、思考回路のレベルにまで追随すること。時には、身体表現にも影響を及ぼすことがある。欧米に移住した北京の友人は英語を話すときに肩をすくめることが多く、表情も誇張される。その一方、日本語を長く話していると、人に会ったときに無意識にお辞儀をすることがよくある。そうしたくないと思っても、なぜかそうなってしまうから、日本に長く住んでいたことの証であろう。ただ、これはぼく一個人としての感覚のみ、一般的なものではない。

今、海外に移住しようとしている知人がこれに気付いているかどうかはよくわからない。程度の差もさることながら、特に子供を含む家族全員が海外移住を希望している場合、多少とも意識しはじめるだろう。


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