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ときどき記憶の中に出るカフェ

北京から日本に移住して約40年が経ち、その間引っ越しなどは多くなかった。妻もぼくと同じく北京出身で、数年遅れて日本にやってきたのは、彼女がベルリンで留学していたためだった。ベルリンの壁崩壊の歴史の瞬間を身近く経験した。

彼女が日本に来る前、ぼくはベルリンに行き、彼女の行きつけの小さなカフェも訪れた。その時は夜で、われわれ以外にもアジア系の少年少女がいた。無言で、女の子はずっと涙を流していた。何が起こったのかはわからなかった。妻と二人で今後どう進むかを話し合っていた。ぼくがベルリンに同行するのか、それとも彼女が日本にきてぼくと一緒に暮らすのか。

ぼくは日本に留学してまもなく退学し、魚屋で働き始め、留学資格は就労ビザに変わった。当時のビザの種類は4-1-6で、中国国籍のパスポートに刻まれた印章は何年経っても色褪せない。なぜこの数字が就労を示すのか、それはぼくにとって謎のままだ。

後になって、このビザの種類が「人文知識、国際業務」に変わったことを知るようになった。魚屋の店主はかなり疑問に思っていて、「人文知識と魚の商売にはなんら直接の関係も見当たらないよね」と言った。

話はずいぶん脱線した。先ほどのベルリンの小さなカフェに戻ろう。既に閉店の時間になっていたが、その少年少女は依然として以前の状態にあり、女の子の涙はまだこぼれていた。われわれ二人以外には誰もいない状態だったから、勘定して帰ろうと思っていた。妻はドイツの店主の視線から何かを悟ったかのように「もう少し座っていて」と言った。実際、店主が気にかけていたのはその少年少女の感情で、通常通り閉店の準備をすることなく、いつものようにコーヒーマシンを片付けず、清掃もせず、「閉店です」とか言わず、ただカフェを変わらぬ雰囲気で保っていた。その結果、妻とぼくは他の話題について話し続けた。

気がつかないうちに、その少年少女は手をつなぎはじめ、お互いを見つめ合い、女の子はもう泣いていない。男の子はとても深い愛情を示していた。そうだ。小さなカフェが彼女と彼を助けた。「何より静かになれば、悟りが開ける」と言うのもそんな場面だったかもしれない。妻はドイツの店主と親しく、写真はその店主が撮ってくれたものだ。その時代、われわれは若かった。定年になったら、ベルリンのあのようなカフェを開こうと思う時もある。さて、どうだろう。

1989年ベルリンにて

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