中国を知ることの真剣勝負
中国を理解することは間違いなく大きな課題だ。これは中国にとってだけでなく、世界にとっても同様。内外を比較してみても、世界への中国の影響力はますます注目されている。
昨晩、ノンフィクション作家と会食し、中国について話し合った。今の中国に関する本を書きたいというが、ぼくの経験から言えば、中国を話題にする日本の方は、中国問題の専門家か、また、何らかの個人的な理由で中国と縁がある人が多い。それ以外には、中国について話す日本人は、ほとんどいない。
近所には、男性高齢者がいる。普段は道端でばったり会うと挨拶するだけで、深い話はしない。しかし、ある日、信号待ちの時に彼が「今年の夏は暑すぎですよね。こんなに暑い夏は生まれて初めてです」と言った。
ぼくは「そうですね、ここは海に近いから湿度も高い。過ごしにくいですね」と答えた。すると彼は「私は以前北京に住んでいました。あそこも暑いけど、湿度が低いから、日本よりだいぶ過ごしやすかったのですよ」と言った。
その時、信号が青になり、われわれはそれぞれの道を歩き出した。彼はぼくが北京出身だと知っていたかどうかはわからない。その後、彼は亡くなり、葬儀の日にぼくは大学に行く途中で、彼の家族が全員黒い喪服を着て、数台のバンに分乗して出発するのを見かけた。あの日も暑い夏の日だった。
今になって思えば、ぼくの周りの日本人が中国について話すのも、この方と同じように意図的ではなく、自然な流れであることが非常に多い。もちろん、ぼくも中国についてあまり多く話さない。国家の光環の前に、まずみんなが人間であることを知るという自然な流れはもっとも重要だと思う。また、他人を理解することは自分を表現することよりも、重要だと常に信じている。中国語でいわゆる「慧眼識珠」(huì yǎn shí zhū)とは、相手を見抜く能力のこと。決して自分を誇示することではない。
さて、先ほどのノンフィクション作家についてだが、中国問題の専門家ではないものの、関連する知識を最初から学ぶ必要があるかもしれない。しかし、この状況は白紙のようなもので、どんな線を引いても目立ち、輝くだろう。実際、中国を理解するには、このような原生の異国からの視点が必要だ。一歩ずつ時代と共に歩むことが何より重要になっている。彼の執筆が順調に進み、世界が中国を理解する助けとなればと願っている。
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