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日本語中毒

 文庫本なしで飛行機に乗れない。機内誌は中国語だが、それだけでは間がもたず、結局いつも手持ちの荷物から日本語を探して読みたくなる。はじめのうちは単行本も読んでいたが、分厚いものはなんだかやはり疲れてくる。そうなると、ズボンのポケットにも入る文庫本がいい。とにかく、飛行機の中で日本語がなかったら、どんどん禁断症状の度合いをましていくことになるのだ。御陰様で空の旅でも何十冊を完全に読み終えた。

 しかし、いつ頃からか、手荷物が妙に重くなったと感じた時期があった。試しに荷物を多少減らしてみたが、やはり重い。この重さの理由は何だろうか?  

 必需品のパソコンやビデオカメラも重いが、これは置いていくわけにいかない。充電キットやビデオテープを出してみても、やはり荷物はまだ重いのである。何なのだ。  

 旅に出るたび手荷物を準備してくれる妻。かつて香港の取材旅行に出る前に、いつもの黒いカバンが軽かったので、なぜそんなに軽くなったのか妻に聞いてみた。すると、辞書はもういらないでしょうという答えがかえってきた。「そうだ。これだよ」と僕は思わず言った。  

 重量音痴というか、そのことにいままで気がつかなかった僕。不思議だ。  

 あーあ。辞書の重さを忘れるほど、日本語に熱中してしまったのかと自分を褒めてやりたい気分である。こうなれば、妻の言うとおり、辞書を持っていくのはやめにしよう。単語だって、少々わからなくても、漢字ならだいたい見当はつく。ひらかなや片仮名であれば、文脈から音読みで読破する。辞書という印刷物は、言葉の意味が不明だったら⋯⋯と想像すると、つい重たくなっても持っていってしまうものだ。非母国語者には持っているだけで安心感を与えてくれるからかもしれない。

 しかし、思えば、辞書をいつもいつも使うと、人間はそれを頼りにすることに慣れ、一語一句をおろそかにしないで精読しなければならないとの気持ちが膨らむばかりである。理屈はそうだが、実際はかならずしも、その通りには行かない。  

 手荷物の重量削減から始まった辞書離れだが、いつのまにか日本語の表現への理解を深めてくれたような気がする。辞書は引かなくても、ことあるごとに、まず考える。難解だなあと思うときに、瞑想する。そして、その念を確かめてから、ふたたび考え、さらに瞑想する。

 日本語を読む過程では、たとえ意味のひとつぐらいは知らないままでも、いまの思考さえ繰りかえせれば、結局、円を描くかのようにどこかでつながっていくものである。  

 日本語をこう思うのも、中毒の症状なのだろうか?

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