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「からかう」という愛情表現

私の祖父はやたらと祖母をからかう。祖母が家事の合間にちょっと横になれば「まるで牛だ」と言い、おやつを食べれば「そんなんだから豚みたいになるんだぞ」と言う。祖母を「ブタさん😁」と呼ぶときもある。そういうことを言う時はいつもニヤニヤして半笑いになっている。たしかにまあ祖母は太っているけれども、毎日のようにそんなこと言われたらむしろ太るだろうよ、とも思う。結婚当初のスリムな祖母が恋しいのかもしれない。

けれども、祖母が調子を崩すと祖父は誰よりも心配する。こういう時に限って面と向かってあれこれ言いはしないけど、態度でわかる。祖母に無理をさせないように、家事をやらせないようにする。そして祖母が家事をしなくて済むように、祖母がいないタイミングで家族にあれこれ言いつけることもある。それなら自分でやれよって思うけど、昭和に取り残された頑固爺さんなのでそれはもう期待していない。

私はそんな祖父に従順な祖母のことが心配でならないので、昔は祖母をからかう祖父にいちいち食ってかかったり文句を言ったりしていた。が、5年以上それを繰り返して何も変わらなかったので私が心をすり減らすだけ無駄なのだと気づいた。第一もう何十年もそうやってからかわれている祖母はニヤニヤする祖父の話なんかこれっぽっちも聞いていないし。

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「イジリ」が「いじめ」になるという話もあるように、からかう側の言葉が必ずしもからかわれる側に好意的に受け取られるわけではない。私も他人の言葉を言葉通り受け取ってしまうタイプの素直な人間なので、「これは愛情表現だよ」と言われても困る。少女漫画の主人公みたいに「もう!からかわないでよ😠」なんて言いながら頬を膨らませれば少しは可愛げがあるのかもしれないが、コミュ障がからかわれたところで「エ、アハハ……😅」くらいのリアクションしか取れない。その場では適当に笑って受け流して、帰宅した後になってようやく落ち込んだりキレ散らかしたりを繰り返すのだ。実に難儀である。

まあ、ともかく、からかったつもりで言った言葉が「罵倒」とか「侮辱」とかって受け取られることもある。からかった側の感情なんて受け取る側には見えないから、察しろと言う方が傲慢だ。これはコンテンツを発信する側と受け取る側の関係性にもつながる。

例えば私が書いた小説が書籍化されて不特定多数の人に読まれたとする。内容は「高校生の女の子たちがケンカしたり仲直りしたり、憧れの先輩に恋したりしなかったりしながら青春を過ごす」という感じだったとする。私はそれを「女の子たちの友情物語」として書いたが、ある読者は「百合(同性愛)」として受け取ってSNSに感想を投稿した。この場合の読者は小説の文章しか読んでいないので、作品に込めた私の思いなど知る由もない。だけどもしこの投稿を読んだ私が「この作品は友情をテーマに書いたのに、勝手に同性愛ものとして解釈されるのは心外だ」という声明を発表したならば、それはアリなのか、ナシなのか、という話。

弊学科の授業では「作品を世に出した時点でその作品はお前のものじゃなくなる」と教わる。作品が読まれたらその作品は読者のものになり、読者の数だけ作品の解釈が生まれることになるらしい。その理屈でいけば、「言葉を発した時点でそれは受け取った側のものになる」とも言えるかもしれない。言葉を発した時点で、その言葉の解釈は受け取る側の判断に委ねられる。だから「愛情の裏返し😄」とかふざけた言ってないで、愛情を愛情として受け取ってほしかったら最初から素直に相手と向き合えよと。そういうことになる、かも。

とは言え、からかう側の気持ちもわかる。最近「キュートアグレッション」という言葉が世に浸透しつつあるように、「好きな子にイジワルしちゃう😜」ということは往々にしてあり得る。私も実家の猫(この記事のサムネイルにもなっている)が可愛くてしょうがなくて、思わずツンツンしまくった結果めちゃくちゃに噛まれることがある。噛まれるのも含めて全部愛おしい。なんというか、ウズウズするというか、「好きすぎてメチャクチャにしたい」みたいな。そうとまではいかずとも、自分の言動でかわいいその子を困らせたり、怒らせたりしてみたくなるのだ。相手の特殊な感情を自分あてに抱かせることで満足感を得られる。つまりは構ってほしいのだ。

自分の言葉で怒ったり困ったり、何かアクションを起こしたりしてほしい。けど本気で怒ったり悲しまれたりするとこっちが困る。だって冗談で言ってるんだもん。からかう側の心境はだいたいこんな感じだろう。だけど、相手に向かって言葉を投げかけた時点で、言葉の表面には含まれていない「冗談」という要素は消える。SNS上で衝突が起きやすいのもこのせいだ。声のトーンとか、表情とか、そういう「言葉の裏」を読み取れる要素が消失して言葉通りの言葉だけをやりとりするので誤解が生じる。それを受け取る側の読解力の無さと断定してはいけない。言葉しかない世界には、言葉だけですべてを伝える技術が必要になる。

からかうという行為にも同じことが言える。「ちょっとからかっただけ」のつもりで相手に「ブタさん😁」と言ったとしても、相手は「ブタと言われた」と受け取る。それが普通だし当然のことだ。相手に向けて言った時点でその言葉は相手に渡る。渡されたその言葉をどう受け止めるかは相手次第だ。「からかう」というのは自分が満足するための行為だけれども、それをされた側の人間が必ずしも軽く受け流せるとは限らない。自分の満足のために、自分以外の誰かを使っているということを忘れてはいけないと思う。

……まあ、そうは言っても。私はバイト先でなんのかんのとからかわれるけれども、私はそれを侮辱とは思わない。無視されたり変に距離を置かれるよりはからかわれるくらいの距離感がいいし「可愛がられてるんだな〜」と思う。モヤモヤするときもあるけど、ものすごく凹むということはない。でも、だからって何でも言っていいわけじゃない。あくまでからかわれた私が軽く受け流すことができているというだけで、からかうことが良いわけじゃない。別にイヤじゃないけど、そうやって四六時中からかわれている私がバイト中に言われたことをそっくりそのまま小説に書いたとしても、言った側は文句言えないよね〜という感じ。

いつのまにか長々と書いてしまっていたけど、言いたかったことはただひとつ「相手の気持ちを考えて行動しようね」ということ。それだけです。

それじゃあ、今日も1日お疲れ様でした。


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