ヴァルナブル・サバイブ

■強者とは、弱者とは。 強いとは、弱いとは。


強者、弱者という言葉がある。
強い、弱いという言葉がある。

強者とは何か。弱者とは何か。
強いとは何か。弱いとは何か。
どこでそこを分け、区別しているか。

まず初めに、
「強者」という人物はいない。
「弱者」という人物もいない。
これらの物質は存在せず、
またこれらは一定した概念ではない。

「その状況に応じて、強い、弱い」という概念、
指向性があるだけである。

自己に迫り来る刺激/圧力に対する処理の仕方に、
「強いっぽい、弱いっぽい」
という指向性があるだけである。

重要なのは、これらは一定した概念ではなく、
どんな状況でも、処理の仕方によって如何にでもすぐに転じるということである。

絶対普遍の概念ではなく、
相対的、局所的な、刹那的な概念である。

それなのにも関わらず、
人は「自分は強者だ」または「自分は弱者だ」と
錯覚して絶対化してしまうことが多い。

まずはこの錯覚、思い込みを外さなければ、
強い/弱いという概念をうまく運用することができない。

迫り来る脅威に対して、
生存のための対処をどうするか。

いかなる時代・場所・状況においても、
どうやって生存確率を上げるか。

我々はこの確率を上げるために、
都度都度処理していくだけである。

「強い/弱い」について考えること。

これは、サバイブのための生存戦略を練る上で、
全生命にとって必要不可欠なテーマである。


【自己に迫り来る刺激・圧力に対する対処のパターン】

では、この対処の仕方としてどのようなパターンが存在し、またどのようなパターンが「強い」「弱い」と言われるのだろうか。

■「強い」対処

刺激 / 圧力 に対して、

・受け止める。
→受け止めるのも刺激によっては相応の体力・技術は必要。相応の許容値が必要であり、圧力をかけることで筋トレ的に許容値を上げることができる。

受け止めたのち、
・受け入れ、消化する。
→消化には許容量が必要となる。消化の許容値を上げるために圧力をかける筋トレ型。

・受け入れずに、受け流す。または転化する。
→刺激を無効化し、いなす。合気道、太極拳型。または刺激のエネルギーを利用し自分のエネルギーに転じる。燃料型。

・受け止めたまま置いておく。
→一度受け止めつつ、その後の処理をすぐせずに置いておく。刺激を側に置いておくため、その間はずっとエネルギーを削られるので、相応の忍耐値かあるいは寛容値が必要。

↑上記これらは、やり方を混ぜて複合的に行うこともある。
これらは、刺激に対する処理をある程度上手く行うことができ、有利を取れる。リスクに対して、ある程度リターンを得ることができる。
=「強い」という状況と言える。


■「強い?」対処

刺激 / 圧力 に対して、

・マウントをとる。マウントを取り返す。
・攻撃する。のちに攻撃に転じる。 
→リスクに対して、リスクを与え、リスクを抑え込もうとする行為。あるいは、リターンを取りに行こうとする行為。
しかしこれは一時的にはリターンとなるかもしれないが、状況によってはやり合いとなり、その後のリスクを更に背負う行為でもある。
=ぱっと見では「強い」っぽい対処ではあるが、中長期的にみて「強い」対処かどうかは、?である。


■「イーブン」の対処

刺激 / 圧力 に対して、

・逃げて距離を取る。
→これは、リスクに対して、リターンはないがリスクもない。
=「強くもないが弱くもない」というイーブンな状況と言える。
しかしずっとこれだけを行なっていると、ジリ貧になり不利な状況に追い込まれていくこともある。


◾️対して、「弱い」とされる対処は何か。

刺激 / 圧力 に対して、

・無防備に当たりダメージを負ってしまう。
・受けるが、受けきれずダメージを負う。
・受け入れられずダメージを負う。
・受け流せずダメージを負う。
・逃げ続けたのち、追い込まれる。または追い込まれたと錯覚する。

→刺激に対する処理をうまく行えず、
リスクに対して、リターンを得ることができない。
リスクを背負ったまま、ダメージを受ける。
→「弱い」という状況。

◾️「弱い」という状況に陥った時、人は本能的にどうするか。

・声を上げる。(救助の悲鳴)
→救助要請をしてその場のリスクを回避しようとする。
その後のリスクに備えて群れを呼び寄せリスクヘッジしようとする。

・攻撃する。(窮鼠猫を噛む)
→一か八かのリスク回避、リターン狙い、あるいは差し違え、共倒れを狙う。

・群れる。(群体形成)
→リスクに対して、リターンを得ずにダメージを受けたため、
群体になり、その後のリスクに備える。


■声を上げる。攻撃する。窮鼠猫を噛む。

「弱者の立場」をとり、
そこから自衛や利権のために自分(達)の権利を主張し、外界を攻撃する。

→弱者の立場、というのがポイント。
「弱者」という人間はいない。
誰でもその立場になることができる。
弱者の皮を被り、利用することができる。
”弱者ヤクザ”

・権利の主張
権利は人間社会の妄想。実在しない。
「赤信号渡らないようにみんなで守ろうよ」と言っているだけ。
車が突っ込んでくる時は関係なく突っ込んでくる。

・脅威が被害妄想の場合
→自分で勝手に傷ついて、他責化し、
暴れて周りを傷つけている場合。
自身が生んだ被害妄想(認知の歪み)が脅威になってしまう。
リスクを自分で生み出している。
これ結構やりがち。実は、大概の脅威は脅威ではない。
自ら脅威にしてしまっている。

・傷付けられたから、傷付けられたくない、または傷付けて良い。という思想。
不利益(リスク)を被ったから、不利益(リスク)をなくしたい、
または損害を補う利益(リターン)を得たいという対処。
差別をされたから、差別されたくない、または差別してよい、という対処。

→これらの対処は、果たして効果的だろうか?


【利用される「弱者」という言葉】

弱者という物質はない。
その時その時で、ただ弱いという状況があるだけである。

弱者という自覚、暗示、呪い、盾、武器。
弱者という、"強み"。

弱者と強者という言葉は表裏一体。
弱者になればなるほど強者でもあり、
強者になればなるほど弱者でもある。
そしてその関係は、すぐに裏返る。
これらは相対関係であり、絶対的なものではない。

・弱いという状況が「連鎖」し、「一定続いた」ように思うと、
その人は自分を「弱者」だと思い込んでしまう。
実はそれらは連鎖していない。一定も続いていない。
一瞬一瞬の指向性があるだけである。
→どこからでも対処は変えられる。

・「弱者」の感覚にとっては、「はじめに強者があった。」という聖書の書き出しのような前提性がある。前提には、「強者」という概念の存在がある。
強者がいるから弱者がいる、と感じてしまう。
「強者が弱者と強者を意味づけ2分する」ような感覚になってしまう。
しかし、冒頭から言うように、「強者」はそもそも存在しない。

・「強者が傷付けるのが弱者」ではなく、
自分で傷ついたと認識したものが自分を「弱者」と認定するのだ。
いじめは虐められたと個人が認識した瞬間からいじめになり、
セクハラはセクハラを受けたと個人が認識した瞬間からセクハラになる。
全て受け手次第である。

・「マジョリティ」を強者と思い込み、「マイノリティ」を弱者と思い込む
マイノリティ、マジョリティはただの統計学。
括り方を変えるだけで、この意味合いは無数に変化する。
人は括り方次第で、みな何かのマイノリティであり、
同時にみな何らかのマジョリティである。
→弱いという状況と、マイノリティという統計は関連性がない。


■主観が強者と弱者を作る

人は、主観によってしか物事を認識し得ない。
その主観は、パニックになればなるほど視野狭窄する。
視野狭窄すればするほど、さらに思い込み、信じる。
信じれば信じるほど、さらに視野狭窄する。
そうなると、認知は狭く、硬く、歪んでいく。

あたかも強者と弱者がいるのだと勘違いしていく。

◾️群れるという行為

自らを弱者であり、マイノリティであると感じた個人は、
居場所を得ようと、脅威から身を守ろうと、
あるいは強者になろうと、自身の領地の保有権利を訴え、保持し、
あるいは攻撃し、領土拡大を求めるために、
徒党を組み、群れる。マジョリティ化しようとする。

集団形成は一時の強さはある。
しかし個々の状況処理が上手くなるわけではない。

集団性を得て、マジョリティと同化し強者になった気になるが、
結局はそれも思い込みである。
そもそも「マジョリティ」は単なる統計で、強者ではない。

集団形成は一時のリスクヘッジであり、個々の処理能力は上がらない。

・王は強者か、民衆は弱者か
王様と民衆という関係は、王様は強くもあり弱くもある。
民衆は弱くもあり強くもある。集団性はむちゃくちゃ強い。

◾️恐るべきは「同化」の思い込み

国と一体となって強くなったと感じることは避ける。
マジョリティ同化の危険性。
サッカーの時の日本戦の渋谷。

■個人に根ざすことが最大のサバイブリスク軽減

強者 / 弱者という概念を離れ、
マイノリティ / マジョリティという概念を離れると、
その抑圧から解放される。

抑圧していたのは意味づけしていた自分自身でもある。
それらから離れた先にあるのは、個人主義である。
(政治的イデオロギーの”個人主義”ではない。)

・社会に完璧な運用はできない。
社会規定は大枠を運用するためにあり、それは万能ではない。
社会の規模が大きくなればなるほど、漏れは出る。あくまで大きな運用しかできない。
社会に全て解決を求めることはできない。
社会にリスクをヘッジしてもらおうとしても、
社会の責任に他責しようとしても、
自己の処理能力の責任から逃れたいという気持ちを表明しているだけで、
処置としてあまり意味がない。

・自分ごと化
もし他者のリスクを、
自分のリスクのように自分ごと化できれば・・
=思いやり 隣人愛 キリスト教的、墨家的思想

それで他者のリスクを減らすことができる。
この姿勢は、個人としては大事だ。

もしみんながそれをやることができれば、
世界は完全に平和になる。
→キリスト教的、墨家思想的「社会」

しかし、そんなことはあり得ない。
ここは、サバンナである。

・日本的思想の問題点

「周りに迷惑をかけてはいけない」

日本的リスクヘッジ型思想。
しかしこれは裏返せば、
「周りに迷惑をかけたら、徹底的なしっぺ返しをしても良い。
リスクをかけられたら、リターンを得ても良い。」という思想。
この考え方の根底にあるのは、不寛容。
村八分、罪人のレッテル貼り。差別・侮蔑的。

・大事なのは、真逆のインド的思想。

「周りに迷惑をかけることはしょうがない。
しかしその分、周りから迷惑をかけられても受け入れる。」

これは裏返すと、
「みんなにリスクはかかるものだから、
相手にリスクをかけるのはしょうがないし、
自分きたリスクは覚悟する。」
寛容。被差別的。リスク受け入れ型。

→他者に強要はしない。
傷付けられたから、自分は他者は傷つけないようにしよう、
差別しないようにしよう、という思想。
他者に同じ考えを強要制限しない。


■考え方で弱くなる。考え方で強くなる。

サバイブの生存確率を上げるには、究極は個人がどうするか次第だ。
個人に根ざし、自責で思考し、対処しようとする。

他者の生き方のケースから学び参照はしつつも、
それに汎用性があるわけではないので、
各々が各自で生存のために研鑽するしかない。

これを突き詰めると老荘思想になる。
→サバイブの生存確率を上げるのに、老荘思想が有効



【東洋思想、老荘思想の「道TAO」タオイズム】


■客観を得ようとする。認識の歪みを無くそうとする。

所詮人は、主観でしか物事を認識し得ない。
所詮人は、相対関係でしか物事を認識し得ない。
しかし、その中で客観性を得ようとする。
相対関係を適切に配分しようとする。
自己の認識を疑い、向き合い、信じる、を繰り返しアップデートしていく。
→客観視、大局観、マクロ視点、巨視的視点の形成。
秩序の形成。円になる。球になる。
→デッサン、役立ちます。
認識力、相対関係力。引きと寄り、全体感。

■笑いの重要性

笑いはすごい。
マイナスをプラスに転じて無効化する。
リスクを笑って愛して受け入れる。

笑うとは、歪みを面白がること。
面白がるとは、歪みを愛すること。
愛するとは、受け入れること。

リスクを、面白がって、愛する力をつけること。
歪んでる形を面白がって、愛で球にすること。
これは考え方次第ですぐできるようになる。

■合気道的、太極拳的思考

考え方を転化する。反対から考える。
柔軟に。柔よく剛を制す。脱力。消力。
合気道の極意は、
「殺しに来た相手と、友達になること。」
すなわち、愛。
愛とは、受け入れること。

■上善如水。

水が一番すごい。
岩の硬さは脆いが、竹のしなやかさは折れにくい。
水は、究極にしなやかであり、硬くも脆くもなく、
折れもしないし、勝ちも負けもしない。
強さも弱さもない。
最強なのは、強さと弱さの概念を無効化し、解き放たれること。
最強という概念もないこと。

ブルースリーも言う。
「Be water, my friend.」

■〜イストにならない。〜イズムをたくさん入れる。

〜イストになってしまうと、ひとつの信念しか入れることができず、
0:100になり、硬く、脆い状態になってしまう。

〜イズムは、沢山入れられる。たくさん抱えたって構わない。
相反するイズムだって入れられる。ダブルスタンダードにもなれる。
しなやかになれる。
自分の中に矛盾を抱え込むのは大事なことだ。

ダブルスタンダードで良い。
むしろ、ダブルスタンダードが良い。
自分の中に矛盾を入れ込む。

最強の矛と最強の盾を持った状態。
矛盾が一番強い。
無用の用。
陰陽、太極観。

■無為自然

認識を得ようとした上で、認識を捨てる。
言葉を捨てる。分別を捨てる。
相対性に縛られない。無分別の智慧。

受け入れるというか、もう受け入れるとかでもない。
自己を無くす。自己などない。
よって初めからリスクもない。何もない。忘我。仏教思想

バカでいい。

■個人主義

不干渉。相対関係に興味をなさず、
ただ生き、ゾウさんのようにひっそりと死ぬ。孤独死OK。
「何もしないを、しているんだよ。」プーさん

■胡蝶の夢

睡眠したっていいじゃない。夢だっていいじゃない。
現世は夢のようなもの。現実も夢もそこには存在しない。

■面白がる力-荘子の遊

面白いと思うことと、面白がるということは全く別。
面白いというのは単なる受け入れた結果を表すに過ぎないが、
面白がるというのは意識的・能動的に受け入れようとする姿勢。
面白いことを面白いと思うのは当たり前、
面白がるチカラをつけることが人生で大事。

作り手が面白がり、受け手に面白がってもらうと、
建設的な対話ができていく。
なんでも面白がれるようになると、辛さも苦しさも面白がれる。
嫌なことが好きになる。
面白くなきことを面白く。

そして、それが出来るようになった状態が、荘子の言う『 遊 』。
全てに対して自由で、遊べる状態。


■梵我一如。和光同塵。万物斉同。

万物は皆同じであり一つであり無である。
そして、強いも弱いもない、と、全てを無効化する。
言葉など概念など存在しない。
これが一番すごい。(強いとも言えない。形容不可。)

これでいいのだ。
ケ・セラ・セラ。
Let it be.
Let it go.

老荘思想は、強い / 弱いの概念から解き放たれる。



■結果

強いとか弱いとかワイワイ言うより、タオイズムがいい感じ。
一生懸命プレイヤーとして刺激に対処してサバイブしつつ、
全部をタオイズムで無効化する、この両輪があるとサバイブしやすい。


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