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川崎ゆきお超短編小説 コレクション 5

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2021年3月の記事一覧

抜く

抜く



 懸命に、丁寧にやったものよりも、適当に、いい加減にしたものの方がよかったりする。手を抜くというよりも、その手前で既にやり終えていたような。だから抜くもなにもなく、すっとそのままやってしまえたようなこと。
 当然、あとで考えると、簡単にやり過ぎたため、自信はない。そんな簡単なことでいいのだろうかと考える。それでは懸命にやったことにならないし、真面目に真摯に取り組んだわけではないので、少し罪悪感

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春風の吹く顔

春風の吹く顔



 いつも春風が吹いているような顔の上田だが、春になっても顔色が冴えない。険しい顔をしたまま戻らないように。
 それはどうしたことかと、知り合いの住職が訪ねると、戻らないと言うより、これで普通だと言うし、別に生活が厳しいわけではないし、いかめしいことを考え続けているわけでもないと。
 ではどうしてそんな不機嫌そうな顔になったのかと聞くと、冬の寒いとき、顔をしかめたままフリーズし、戻らないとか。

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企画書

企画書



 木下が出した企画書を見て部長が興味を懐いたようだ。それで、部長室から呼び出しを受けた。
 課長がそれを聞いただけで、別に話を聞こうというわけではない。
 課長は係長にそのことを話した。係長は木下に、部長が呼んでいるという話になってしまう。それでいつ行けばいいのかと考えたが、すぐにだろう。
 それですぐに部長室のドアを叩いた。そこには部長しかいない。
 見晴らしのいい窓を背にした椅子で、部長は

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祭りの日

祭りの日



 倉橋は楽しみを早い目に済ませてしまった。しかし、それほどのことではなく、がっかりした。そういった楽しみは間隔を置いて実行している。今回は早すぎた。そのため、次の楽しみまでの期間が長い。
「早まったなあ」
 倉橋は後悔したが、我慢出来なかったのだろう。早く楽しみたいと。
 次の楽しみまで、かなり間が開く。これを早めて、前倒ししてもいいのだが、期間を置かないと、それほど楽しいことにはならない。今

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北中が出た

北中が出た



 春めいてきたので北中は外に出た。毎年のことで、特にいうほどのことでもないし、語るほどの内容ではない。そのへんの虫が起きだして、蠢いている程度。世間の片隅よりもさらに隅の隅、しゃがんで見ないと分からないし、また葉の下や、ドブ板の下などにいたりする。
 しかし、その虫の僅かな移動距離内でもそれなりの影響を与えている。非常に狭い範囲だが。
 北中もそんな感じで、北中が動いても、それほど影響はない。

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市ヶ崎坊の権蔵

市ヶ崎坊の権蔵



「市ヶ崎の権蔵さんはこのあたりか」
「そうです」
「どの屋敷じゃ」
「そこの小橋を渡って、右に入って二つ目のお屋敷です」
「かたじけない」
「いえいえ、それよりも、いいんですか」
「何が」
「そんなお屋敷に行かれて」
「用がある」
「じゃ、仕方ございませんねえ」
「何が仕方ないのじゃ」
「いえいえ」
「気になるのう。何かあるのか」
「何かおわりなので、行かれるわけでしょ」
「まあな」
「では、

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この世の花

この世の花



「桜が咲いています」
「あ、そう」
「ソメイヨシノです」
「あなたが見た桜だけでしょ」
「そうですが、別の場所でも見ました」
「じゃ、二箇所」
「いえ、三箇所か四箇所」
「どの程度咲いた」
「どの木も、一輪ぐらいで」
「一輪」
「はい、一つだけ、ぽつりと、そのあとは、それに続くでしょう。だから今朝は咲き始めです。昨日までは咲いていませんでしたから」
「あ、そう」
「どうですか、花見と洒落ません

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龍使い

龍使い



 長く眠っていた龍が竜ヶ森で目覚めた。竜ヶ森と呼ばれているが、龍など見た者はいない。伝説だ。名が残っているのだから、何か謂れがあったのだろう。
 龍を起こしたのは少女。
 ある日、森に迷い込み、崖から滑り落ちそうになったとき、飛び出していた岩にしがみついた。その岩もずるっと動いた。
 龍の封印だったようで、少女がそれを開けたことになるが、そんな意志などなかった。
 そして森に行く用事もなかった

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春が来ない人

春が来ない人



 春が順調に進んでいる頃、柴田は相変わらずの暮らしぶりを続けている。徐々に暖かくなっていくので、順調だろう。しかし、柴田は不順。これは体調もそうだし、気持ちもそう。
 しかし万年床のようにその状態に慣れると、それで普通。特に気にすることもなく、季節の移り変わりを見ている。
 それが精神作用に大きく関わることはない。気候の良さが気持ちの良さに影響はするが、ただの皮膚だけの反応だったりする。
 そ

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覚醒

覚醒



「昨夜は春の嵐でしたなあ」
「雷が落ちたでしょ」
「あれは近い、閃光も強烈。電気を消してましたが蛍光灯いらず。それよりも明るい。ストロボだ」
「ああ、フラッシュ」
「音も凄かったですよ。響きました」
「私は地震かと思って起こされましたよ」
「何処に落ちたのでしょうねえ」
「さあ、そこまでは分かりませんが、近いです。このあたりです」
「まあ、嵐も去り、晴れてきました」
「雨も凄かったですねえ。し

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奇妙な民宿

奇妙な民宿



 民宿のようだが、はっきりとした看板はない。見た感じ民宿のように見える。そのあたり、民宿が多い。駅前で老婆から誘われ、それに従った。既に夕方、何処で泊まっても同じ。寝るところさえあればいい。
 駅前からかなり離れているが、商店街はかなり長く、一度途切れて田んぼの中の道になるのだが、また復活したように商店が並んでいる。しかし更地が多い。
 駅からは送迎バスでもなければ、遠すぎるだろう。しかし、バ

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蕾の豪右衛門

蕾の豪右衛門



「雨が降っておりますが、大丈夫ですか」
「春の雨、暖かい。大事ない」
「しかし、雨の日にわざわざ出掛けられなくても」
「桜の蕾が気になるのでな。今日あたり、咲いておるやもしれん。昨夜からの雨で」
「まだ早うございます」
「分かっておる。途中が見たいのじゃ。咲く手前の頃が」
「今年に入って、毎日ですよ。見に行かれるのは」
「変化はないのだが、最近は蕾も大きくなり、色も付きだした。これは近い」

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黄金郷

黄金郷



 今日は何もしないで、ぼんやりと過ごそうと吉岡は思ったのだが、昨日もそうだった。
 何か用件でも済んだ翌日ならのんびりを楽しめばいいのだが、連日、のんびりなら、のんびり漬けで、のんびりとした感じにはならない。さらに、もっとのんびりと過ごせばいいのだが、そうなると逆に退屈。今でもそうなのだから、これ以上のんびりとしたくはない。
 そういう日々を送っていた吉岡だが、ここ最近忙しくなった。用件が多く

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舐める話

舐める話



 表通りではなく、裏通りの商店街、ほぼ路地だが、そういうところを歩くのが前田の趣味。それはコースが決まっており、毎日そこを通っている。裏道の入口に散髪屋があり、料金が安いので客が多い。裏側にタオルが干されており、白い大きな花が咲いているように見える。散髪屋は硝子張りで、店の人が数人おり、顔を覚えるほど。そこの人も、その時間になると毎日通っている人がいるな、程度には見ているだろう。
 そして、路

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